瞼裏の楽園
――あ
扉の向こうに探していた背中を見つけた菊池は、かけようとした声を飲み込んだ。
八つ時も過ぎ、帝国図書館特務の仕事も落ち着いた午後。図書館の最奥、裏庭に面した小さな部屋。
元雑用品置き場のそこは、有志達の手により、家具や小物が運び込まれ、現在では図書館に集う文豪達の、ちょっとした休憩所となっている。
弟子の姿を探して、うららかな午後の図書館を歩いた菊池は、最後にその小部屋の扉を開いた。
位置取りが良いのか、裏庭からでも緩やかに陽の光が入る。午後の光に照らされた窓際の特等席にソファセットが置かれ、向かい合うように二人の人影が見える。
ゆったりとした三人掛け、テーブルを挟んで向かいに一人掛けが二脚。入り口を背にした三人掛けに川端、向かいの一人掛けに徳田が座っている。扉を開いた菊池には、手前に座る彼の表情は見えない。
けれど川端の向かいに座り、菊池の姿を認めた徳田が、口元に手を添え目線で静かに、と菊池に訴えていた。
なんとなく状況を察し、菊池は静かに扉を閉めて回り込む。彼の予想通り、川端は薄く目を閉じ、うつらうつらしていた。
菊池は苦笑しながら川端の隣に腰掛け、夢うつつで微かに揺れる体に手を添える。そのまま少しこちらに力を掛けると、こてん、と菊池の肩に川端の頭が乗った。
そのまま子供をあやすように、とんとん、と添えた手を動かせば、川端は完全に寝息を立て始める。
「お忙しいのに、すみません」
もたれ掛かる川端を起こさないよう、目線と小声で徳田に詫びた。
「いや」
一連の流れを向かいのソファで見ていた徳田は、穏やかな声と微笑で返す。
「ここのところ、ずいぶん熱心に書いてると思ったら・・・・・・」
やはりこのためだったか、と菊池は苦笑いを浮かべる。
「ああ、知ってたのか」
「一昨日読みました」
先ほどから徳田が手にしている原稿用紙には、見慣れた川端の文字が並んでいる。それは川端が菊池に添削を依頼してきた原稿だ。珍しく手直ししたほうが良い箇所はあるか大丈夫か、と川端に熱心に問われたので、菊池もいつも以上に読み込んで、それに朱を入れた。
なるほど、憧れの作家に読んでもらうとなれば、熱心にもなるだろう。
「今朝方まで推敲していたようなので――どうぞ」
すみません、という言葉とともに、菊池と徳田の前に煎茶が置かれた。
茶を差し出したのは横光で、どうやら菊池が来たのを察して、茶器を増やして来たようだ。テーブルには最中や、紙に包まれた干菓子をいくつか乗せた菓子器も用意されている。
そのまま、やや離れた椅子に下がろうとする横光を菊池は引き留めた。自分の隣、川端とは逆側の座面を、ぽんぽんと叩いて示す。横光は一瞬逡巡した様子を見せたが、素直に菊池の隣に座った。
そんな横光の前に、菊池はほら、と手を出す。
「お前も」
「え」
きょとんとする、横光に菊池は笑いかけた。
「書いてただろ」
川端が原稿を書く傍で、彼も書き物をしているのを知っている。
「はい、でも」
「手直し前なのは知ってるが、お前さんの文もまた読みたい、読ませてくれないか」
ん、と菊池は、ためらう横光の顔をのぞきこむ。
「・・・・・・はい」
観念したように横光は懐から原稿用紙の束を出した。
その代わりに、と菊池が横光に手渡したのは図書館の文豪有志で発行されている、同人誌だ。転生しても筆を執らずにおられない文豪達に、菊池や国木田など編集に心得のある者が加わって、不定期に発行されるようになっている。
「刷り上がった最新だ、川端に渡す予定だったが・・・・・・」
これだからな、と隣を目で示せば徳田と横光が潜めた声で笑った。
午後の室内に原稿用紙をめくる乾いた音と、茶器のたてるまろやかな陶器の音が響く。
つい、と立ち上がった徳田が、菊池の斜め後ろにある窓に掛かったレースのカーテンを引いた。
その動きにつられて、原稿に熱中していた菊池は顔を上げる。そして己の左右を見て徳田の行動に納得し、最後に、あー、と声をあげた。
「ありがとうございます――すみません、こいつら」
「いえ」
午後の日差しは傾き、裏庭に面した窓から入る西日が、室内を照らしていた
菊池と、彼の両肩に頭を預けて寝息をたてる二人。いつの間にか、横光も菊池にもたれて眠っている。川端の仔犬のような素直な寝息と、横光の猫のような静かな寝息に菊池は目元を緩める。
図書館では険しい顔を浮かべている事が多い徳田も、窓際で柔らかな表情で笑う。
「もう少ししたら起こそうか」
日が落ちたらここも冷えるから。
徳田はそう言いながら、窓際から戻りつつ、ほのかに朱に染まる川端の旋毛を撫でる。ついでに少し緩んでいた横光の首巻きを整えてから、徳田は元のソファに腰を降ろした。
その様子を眺めながら、菊池はこっそりと笑う。普段は、同輩や少し下の世代には当たりの厳しい彼だが、どうもその下の世代には、本来徳田が持っている面倒見が良い、という性質が素直に出るらしい。
その様子は、なんというか――
「・・・・・・ああ、おじいちゃん」
「だれがジジイだって?」
思わず口に出すと、徳田の眉間にしわが寄った。しまった、と思いつつ、そういう所は師匠によく似てますね、などと思うが、口には出さない。
「あ、いや」
これはしまった、菊池はと適当な言い訳を探すが、両肩に乗った弟子二人を起こさないように、というので頭が回らない。そうこうするうちに、徳田は彼のつぶやきの意図を察したようだ。
「それを言うなら、君だって十分に父親だよ」
「――どうも」
彼らしい皮肉るような言葉だが、音には暖かさが含まれている。それを感じ取って、菊池は甘んじて徳田の評を受けた。
多少過保護にしているのは自覚しているが、生前の彼らを引き合わせた、己と彼らの来し方を考えれば、このくらい気にかけても足りないくらいなのだ。
「それは、まあ・・・・・・気持ちは分からないでもないよ」
てっきり気にしすぎだ、と呆れられるかと思えば意外に肯定的な相槌が返された。読み取る表情は、室内に差し込む黄昏の光ではっきりしないが、彼は彼で師匠や兄弟弟子達に、思うところがあるのだろう。
「さて、そろそろ行こうか」
「ええ。 ほら、二人ともそろそろ起きろー」
感傷的になってしまった空気を振り切るように徳田が立ち上がる。それを受けて菊池も両隣の子供達の肩を揺する。
あ、こら川端二度寝するな、いや横光、いいから起き抜けに慌てて立つな、転ぶぞ。生前と同じく――むしろ生前以上に、どこか抜けた二人が立ち上がるのに手を貸しながら、これじゃ本当に父親だ、と菊池は苦笑する。茶器や原稿を片付ける徳田と目があった。
「口元が緩んでるよ菊池さん」
「そういう徳田さんこそ、こいつらの口にあまった菓子放り込まないでくださいよ」
「持って帰ると師匠に見つかって取られるからね」
徳田はしれっと言いながら、残りの菓子をさらに二人の袂にねじ込んでいる。
少し緊張しながらも素直に菓子を食べる川端、戸惑う横光に片付けてくれないか、と促す徳田。
菊池は国木田にカメラを借りる算段を考える。
「・・・・・・今度写真でも撮るかな」
「は?」
子供のように首をかしげる横光の頭を、大雑把にかき回しながら、菊池は笑って、弟子達風に答えてやる。
「楽園の光は瞼に残しておくにはもったいない、 って事だ」
「はい」
「ええ」
すぐに意味を理解し、はにかんだような横光の返答と、こくこくと頷く川端の返答が綺麗にユニゾンする。一拍遅れて、少し呆れたような、けれど少し照れを含んだ徳田のため息が重なった。
その三人三様の返答を見て、菊池はもう一度、これは楽園だと笑う。
西日は窓辺を通り過ぎていたが、部屋の中には、まだ残光の暖かさが残っていた。
お父さんとおじいちゃんと孫。
新感覚派のお父さんしてる菊池さんが好きです。