前髪の隙間がいちばん甘い
室内の暖房と、外気の寒さとの寒暖差を受けて、部屋の窓に結露の滴がつたう。
その様子を視界の端で捉えた横光は、窓を拭こうと一瞬立ち上がりかけたが、今いる場所が、友人の膝だと言うことを思い出し、浮きかけた腰を落ち着けた。
ここ数日、桜の蕾が開くか開かないか、といった調子で緩んでいた気温は、寒の戻りか、昨日から一気に下がり、今日は窓の外に風花が舞っている。
こんな日に出かけようと思う者は当然少なく、図書館では閑古鳥が鳴いているようだ。
そんな寒さ故か、料理に覚えのある数名の有志が、甘酒を作って振舞うので、希望者は時間になったら集まるように。と朝食の席で呼びかけていた。
発端は、その朝食を摂りに向かう食堂の廊下で、窓の外を眺めた友人が、ため息をついていたのを、聞きとがめた事だ。どうかしたのか、と問う横光に、気落ちした顔の川端は、いつもの調子で歩きながら、ゆっくりと答えた。
曰く、最近図書館へ訪れる、珍しい大型犬の飼い主に、飼っている犬を抱かせてもらう約束を取り付けた。しかし、この天気では、さすがに来られない、との連絡があったらしい。
それだけならば、残念だが、また後日機会があるので、それまで待とう。という話になるのだが、今日に限っては、そこで話は終わらなかった。
余程楽しみにしていたのだろう、川端は食堂に向かう足を止め、同じく足を止めた横光の首巻きの端を、きゅ、と掴んだ。そのまま、何事かと首をかしげる横光に向かって「犬の代わりに、利一が私の膝に乗ってくれませんか」という提案をしたのだ。
折しもそこは食堂の入り口で、居合わせた菊池と芥川が、こらえきれず肩を震わせ、その後ろで直木が、湯飲みの茶を溢しながら、爆笑しているのが、友人の肩越しに見えた。その光景を、横光はしばらく忘れられないだろう。
横光とて、犬と成人男性では、大きさに問題があるだろうと説得はしたのだが、図書館の図鑑を片手に、ボルゾイやら、ビアデッドコリーやらという見慣れない犬についての解説と、大型犬の可愛らしさを語る川端の熱意に圧倒され、結局友人の希望に応える事となった。
そして現在、横光は自分の部屋で、寝台に腰掛けた川端の膝に、横座りに腰掛けるように収まっている。
横光としては、自分より細身な友人に体重を任せる事に、気が気ではないのだが、横光を膝に乗せている川端の方は、ご満悦のようだ。尻尾に見立てているのか、横光の肩で揺れる括った紙を、撫でたり、指に絡めたりしている。本物のように、振ってやれれば良いのだが、いかんせん、そうも行かない。
そのままの体勢で、十数分は経過しているので、そろそろ解放してほしいところなのだが、その気配は一向にない。ついでにいうなら、川端の希望どおり膝に乗ってやっているのに、当の本人は、尻尾代わりの髪にご執心で、今朝あれだけ周囲に――特に直木に、笑われた横光としては、いささか面白くない。
ふむ、としばらく思案し、友人の名を呼んだ。
「――川端」
「どうしました?」
横光は、肩口で動きを止めた川端の手を捕まえる。
「利一?」
そのまま彼の指先を、自分の口元に運び、人差し指と中指の先を甘噛みした。
「せっかく犬の代わりを勤めているのだから、これくらい構わないだろう?」
この際なので、わん、と茶化して鳴いてやると、普段穏やかな川端の顔が、珍しくきょとんとした表情になる。これで多少元は取ったな、と横光がひそかに笑うと、ぐるり、と視界が反転した。
見上げた横光の視界に入るのは、至近距離の友人とその肩越しの天井。背中には柔らかなシーツの気配。どうやら、川端と重なるように寝台に倒れこんだらしい。大丈夫か?という横光の呼びかけに川端の返事はない。
とにかく、線の細い友人を下敷きにしないで良かった。と安堵していると、上の川端がのそりと動き、横光の括った髪と首筋の間に鼻先を埋めた。そして、先ほどのお返し、とばかりに、そのまま横光の耳元を甘噛みする。
どうやら先ほどの転倒は友人の確信犯で、そもそも犬は自分ではなかったらしい。
「犬は川端の方だったか」
「ええ」
横光が苦笑いしながら言った言葉に、今度は返事が返ってきた。
「これは・・・・・・ずいぶんと大きな犬だな」
顔を上げ、悪びれずに、今ごろ気付きましたか? などと子供のように笑う友人の姿に、思わず横光の口元も緩む。手を伸ばして淡雪のような彼の前髪をかき上げてやると、普段は隠れている左目が覗いた。ふいの眩しさで潤んだ琥珀の瞳が、仔犬のように楽しそうに笑うのが分かる。
ここに来るまでの背景や、外見の細さのせいで周りに忘れられがちだが、本来の彼はいたずら好きで、茶目っ気のある人懐っこい質だ。
横光や菊池などに比べれば、こちらに来て日も浅い彼だが、きっと馴染むのはたやすいだろう。もとより、彼は横光よりも長く生きたから、知り合いも多いはずだ。そこに微かな寂寥を覚えるのは、自分の子供じみた独占欲のせいだろう。
手前もまだまだ、修練が足りない。そう内心ため息をついたところで、つ、と額に掠めるように唇が触れた。
はた、と横光が見上げた友人の顔は、拗ねたような、迷子の子供のような複雑な顔で、横光は思わず吹き出した。
埒もない考え事をして、彼の機嫌を損ねてしまったらしい。
存外――と言ってよいのか分からないが、彼は大層な甘えたでもあるのだ。
悪かった、と苦笑いしながら、お返しとして、友人の形のよい額に、唇をあててやる。
「ごまかされませんよ、利一」
「たいしたことではないんだ」
「本当に?」
「本当に」
「そういう事にしておきましょう。今は」
横光の言葉に、文字通り不承不承、といった調子の声が応える。こういう分かり易い態度も、もう少し他に見せてやると良いのだが。そう思いつつ、横光は本物の犬にするように、川端の頭を両手でかき混ぜて撫でてやる。これには川端も機嫌を直したらしく、ため息交じりの、けれど満足そうな笑い声が小さく漏れた。
窓の外は、いつの間にか小雪に変わったようだが、暖房の効いているこの部屋は暖かい。
利一、と柔らかく呼ぶ声と一緒に、もう一度――今度はゆっくりと、額に甘やかな口づけが落とされる。
数十人分の甘酒が仕上がるのは、もう少し先になるだろう。
横光は笑いながら、緩く瞼を降ろした。
去年の年末にわんこでハピネスでチャージで川端さん
というのをSNSで見かけたので、うちの新感覚ならこんな、というのを・・・
たぶんチャージされ過ぎてる、これ。