目が覚めても春は来ない
――足を踏み入れたそこは、室内だった。
四畳ほどの茶室のような和室に、床の間と違い棚、雪見障子が設えられている。雪見障子の硝子からは、その向こうに広がる雪景色の庭に、ちらちらと小雪が舞うのが見えた。
目当ての人影は、障子にもたれ掛かるように座っていた。崩した膝の上でゆるく握った右手には、万年筆が握られている。目を閉じていたので、一瞬どきりとしたが、胸元が穏静かに上下するのを見て、安堵して息をついた。
向かいへ腰を下ろして、子供のような寝顔を眺めてから、横光、と呼びかけて、肩口を軽く叩く。
誰かが来るとは思っていなかったのだろう。右目を前髪で覆った弟子は、はた、と顔を上げると、琥珀の瞳をぱちぱちとしばたかせた。その様子に、いつかの日を思い出して、菊池は軽く笑う。
「菊池さん?・・・・・・」
起き抜けで、まだ少し寝ぼけているのか、横光は子供のような呂律で菊池を呼んだ。
「起きたか?」
遅くなったな、と菊池が苦笑いしながら言うと、横光はいいえ、と少し笑って首を振った。
「此処から、ときどき雀がみえるんです」
視線を辿ると、庭先に植えられた常緑が赤い実を付け、薄墨で描いた水墨画のような庭に、彩りを添えているのが分かる。弟子の言う雀は、おそらくこの実を啄みに来るのだろう。低く硝子を入れた雪見障子は、このためなのかもしれない。
「なるほど、良い趣向だな」
「はい」
しばらく二人して眺めていたが、一向に雀の訪れる気配はない。
「――手前も、賞の一つもとって、貴方に見せたかった」
ぽつりと弟子が溢した言葉は、悔恨の色を滲ませて、舞い落ちる雪と一緒に地面に落ちた。
「戻りません――戻れないです」
横光はゆるゆると首を振った、肩口の菫色が散らばる。
「・・・・・・手前は、ずいぶん、手前でなくなってしまいました」
「横光」
まだ眠いです。それだけ言って横光は、再び頭を障子窓にあずけて、目を閉じてしまう。その後は、呼んでも揺すっても寝息を立てるだけだ。穏やかな寝顔だったが、こんな場所でもペンを握って離さない右手が、ひどく不憫に思えた。
菊池はため息をついて天を仰ぐ。目に入る意匠は、実直な弟子らしい、寒竹を編んだ簾天井だ。
「どうしたもんかな・・・・・・」
誰に言うともなく出た菊池の言葉は、降り止まない雪の中へ埋もれていった。