Daily Life with you
ぱたぱたと動く黒毛の子犬の尻尾を、薄茶色の子犬が追いかける。活発な黒毛と違い、茶色の方はまだ目が覚めきっていないのか、勢い余って、ぽてん、とその場に尻もちをつく。先を歩いていた黒い方が、その様子に気付いて、茶色の垂れ耳に鼻を寄せる。
その微笑ましい光景を、胡乱な目で眺めながら、菊池は小さくため息をついた。そう、とても微笑ましい光景なのだ――自分の足元で、無邪気に戯れるこの二匹が、昨晩まで青年だった、己の弟子で無ければ。
司書のちょっとした雑用を片付けた礼として、菊池が一本の酒を貰ったのが昨日の午後。酒に弱いとは言え、嗜む程度はする。まして、錬金術師の間でしか出回っていない珍品なら、一杯くらい味を見たい、というのが人情だろう。
ありがたく受け取った酒瓶には、洒落たラベルが貼られていたが、見慣れない用語が多く、どんな類の酒なのかは、菊池には判然としない。酒瓶の大きさは、一人で空けるには少々多く、さりとて酒好きに見せれば、一瞬で無くなる程度のものだ。さて、と思案したところで、廊下を歩く揃いのストールに目が止まった。
どうせ川端がそのまま寝てしまうからと、川端が居着いている横光の部屋で栓を開ける。なるほど、確かに良い酒らしく、香り高く飲みやすい。ふんわりした練色の頭は、一杯目を空けきる前に、幼子のように船を漕ぎ出し、生真面目な菫色は、二杯目のグラスを抱えて、真顔で可愛い寝言を言う。菊池が弟子の姿を肴に三杯目を空ける頃には、弟子二人は、安らかな寝息を立てていた。
案の定かと笑って、寝入った二人を寝台に転がし毛布を掛けて、空いた酒瓶を片手に自室に戻ったのが、日付の変わる直前の事。
そして今朝――といっても、既に時刻は昼の方が近くなっているが。菊池は横光の部屋の扉を叩いた。
今日が非番なのは確認済みなので、寝かせておいても良いのだが、昨晩は雑に毛布を被せただけだったから、風邪を引かせてもいけない。数回軽くノックをするが、室内からの応答は無かった。菊池はそっとドアノブを廻して、静かに扉を開く。
覗いた部屋の中は、カーテンが引かれ薄暗かった。どうやら、昨晩菊池が出て行ったままのようだ。眠っているのかと寝台を見るが、シーツは整えられ、昨日掛けてやった毛布も、きちんと畳まれている。どこかに出かけているのだろうか、それにしては、生真面目な横光が、カーテンを開けずにいるのは珍しい。
首を傾げながら部屋の中を見渡すと、部屋の隅に置いた椅子の上に、彼らが常に身につけているストールが、雑に丸められているのが見えた。これが夏場なら、外して外出したとも考えられるが、今はまだ、桜が終わりかける頃合いである。
「んー?」
とりあえず、このままだと皺になるだろう。やれやれ、とストールの端に手を掛ける。持ち上げようとした瞬間、もぞりと布の固まりが動いた。
「うわ」
菊池は驚いて、ストールを掴んだ手をのける。思わず二、三歩後ろに飛び退いて眺めていると、寒色のストールの間から、ぴょこん、と黒色の毛玉が顔を出した。数秒遅れて、隣にあった色違いのストールから、たれ耳で薄茶の毛玉が、寝ぼけ眼で起き上がる。
菊池の頭の中を、まさか、ともしや、が巡る。そういえば、昨日の酒は、やけに回りが早かった。とりあえず――
「ええと・・・・・・川端、か?」
もう一度近づいて呼びかけると、たれ耳の薄茶色は、ふにゃふにゃと鼻を鳴らしながら、尻尾を振る。
「……横光?」
目線を移して、黒色の方に恐るおそる声を掛ける。こちらはしっかりと菊池を認めて、自信たっぷりに、わん、と鳴いた。
二日酔いの幻覚として、そのまま二度寝しなかった事を感謝してほしい。とは、後に菊池が弟子達に語った言葉だ。
「――しかし」
寝台に腰掛けた菊池は、こめかみを押さえて、深々とため息をついた。
足元では、すっかり目を覚ました毛玉――川端と横光が、尻尾を振りながら、とてとてと部屋の中を歩き回っている。
風の噂で、どこぞの図書館では性別が変わるだの、年齢が上下するだの、という話を聞いたことがあったが――
「まさか犬とは……」
せめてもう少し、状況説明と意思疎通が出来る姿であってほしかった。そう思いながら、菊池はもう一度ため息をついて、二匹に視線を戻す。包まっていたストールの色と良い子の返事から、薄茶で耳の先がたれている、少々とろい方が川端、黒毛で骨格のしっかりしている、活発なのが横光、と察しはついたが、菊池にできるのはそこまでだ。
名前に反応したので、こちらの話が通じるかと、何度か試みてみたのだが、どうやら分かるところは、自分の名前までらしい。ただ、特段人見知りをされることもなく、懐かれている様子のなので、かろうじて菊池は、彼らの知っている人間枠に、入っているのかもしれない。
「まあ、ちゃんと返事は出来るしなぁ」
目下の懸案事項である弟子二人は、お互いの尻尾にじゃれたり、シーツの隙間を覗いたりと忙しい。好奇心旺盛なのは、犬になっても相変わらずなようだ。
「お前ら、相変わらず仲良しだな」
俺が言うのも何だが、と菊池がしみじみ呟いたところで、川端が靴の上に、前脚を掛けて、こちらを窺っているのに気付く。どうやら、菊池が座っている寝台の上が気になるらしい。両手を差し入れて抱え上げると、川端はおとなしく菊池の膝にのった。ついでに横光の方も、持ち上げて寝台の上に降ろしてやる。
「さて、どうするか……」
菊池はとりあえず、後ろに寝転がる。視界に広がる天井には、カーテンの隙間から伸びた光の帯が掛かっている。カーテンくらい開けておくんだった、と思ったが、すでに膝の上に川端を乗せてしまっている。せっかくご機嫌な彼を、もう一度床に降ろすのも忍びない。
そこまで考えたて、シャツの端を引っ張る気配に気付く。
「こーら川端」
見れば、膝からよじ登ってきた川端が、菊池の懐に鼻先を突っ込んでいる。
「そこには、まだ財布は入ってないぞー」
引きずり出した川端は、悪びれずに、くあ、とあくびをした。繊細そうな見た目の割に、慣れた相手にはマイペースを貫く性格は、犬になっても変わらないらしい。
この後の算段としては、錬金術師のところへ連れて行くのが最善だろう。ただし、この図書館には、犬嫌いがちらほらいるので、注意が必要だ。さらに言うなら、犬好きに見つかっても、面倒な事になる。
うーん、と考え込んだところで、頭の方から、横光が菊池の顔を覗き込む。凜々しい黒毛と、目の上に入った眉のような模様が、彼の生真面目な性格を映しているようで、微笑ましい。
「お、どうした横光」
唸った菊池を心配したのか、眉間の皺を覗き込んで、小首を傾げる姿が、元の弟子の姿に重なる。
「まあ、大丈夫だから心配するな」
伝わる訳はないのだが、言いながら腕を伸ばして首元を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振って鼻を鳴らす。
弟子同士は意思の疎通が取れているようだし、向こうからの訴えも、観察すれば、なんとなくは理解できる。案外しばらくこのままでも良いかもしれん。
川端と横光を指先で遊ばせながら、菊池が暢気に思ったところで、腹の上に感じていた重みが消えた。一瞬バランスを崩して落ちたかと思ったが、そうでもないようだ。頭上にあった横光の気配も消える。
「きくちさん?」
それと同時に、二対の琥珀色が菊池の顔を覗き込んだ。
「――なんだ、お前ら、もう元に戻ったのか……って……」
寝台に寝転がった菊池を覗き込む弟子二人。その姿は、もちろん見慣れた青年の姿だ。ただし、その腕の中では、薄茶と黒の仔犬が尻尾を振っている、川端が抱えているのが薄茶で、横光の抱えているのが黒色だ。ああ、やっぱりその振り分けなんだな、己の勘も悪くない。そう思いつつ、とりあえず、これだけは確認しておかねば、と菊池は口を開く。
「えーと……どの辺りから居た?」
「――それじゃあ、あいつらは」
「ええ、今日は坂口さん達が潜書で、私達が非番なので」
身を起こして、寝台に腰掛けた菊池に、同じく腰を降ろした川端が、穏やかに状況説明をする。
「よく眠っていましたし、少し荷物を取りに行くだけだったのですが……」
菊池の視界の端では、横光がカーテンを引き、窓を開こうとしている。その足元に、先ほどまで菊池にまとわりついていた川端(仮)と横光(仮)がじゃれついて、彼の邪魔をしている。これはこれで、良い光景だ。
ついでにそのまま、窓の外を眺めると、図書館の中庭が見える。数日に桜の宴が催されていた一角は、春の薄紅色から初夏の新緑に置き換わりつつあった。
「……でもまさか、私達と勘違いするとは思いませんでした」
「名前で呼んだら返事したぞ、あいつら」
せめてどちらか一方は残っててくれ。そう菊池が頭を抱えると、川端はいたずらめいた声で、小さく笑う。
「それなりに賢いですし、何度か預かったことがありますから」
覚えてしまったんでしょう。納得して頷く川端の、穏やかな微笑みが逆に答える。横光の方も、こちらに背を向けているが、肩が震えているのが分かる。絶対爆笑してるな、あれ。などと思いながら、菊池は恨めしい気持ちで、弟子二人を眺める。
ふいに、菊池さん、と隣の弟子が口を開いた。
「もし、私たちが本当に犬になったら、どうします?」
「まず、錬金術師のところに持ってくだろうな」
実際そうしようと思っていた所だし、この場所で起こる不可思議は、大概ここで解決する。
「それで、ずっと犬だったら?」
「どうするってそりゃぁ……」
川端に問われて、菊地はうーん、と眉間にしわを寄せた。ふと気付けば、いつのまにか横光の方もこちらを伺っていて、菊池の目には彼らの後ろで、不安げに揺れる尻尾が見える。お前らの方がよっぽど犬だぞ、と内心苦笑いをしながら、弟子の問いかけに答える。
「そうだな、うまいもん食わせて、季節が良ければ一緒に散歩して・・・・・・ああ、冬場は懐に入れとけば暖がとれるな」
「――いつもと変わりないですね」
「そりゃ変わらんさ」
腕を伸ばして、近寄ってきた生真面目の薄い頬をつまむ。犬ではないが、この弟子達にはもう少し食べさせないといけない。
「それとも何か?お前らは俺が弟子を放り出す、駄目師匠だと思ってるのか」
いいえ、と頬を引っ張られながら首を振る横光に、菊池が笑ってやると、ぽて、と左の肩口に練色の頭が乗った。おや、と思っていると、菊池の肩に頭を預けた弟子は、楽しげに口を開く。
「私たちは幸せ者ですね、利一。菊池さんが養ってくれるそうですよ」
どこまで冗談で、どこまで本気か、笑いながら全力で寄りかかってくる。
「おいこら、川端」
「可愛い外見で得をしました。錬金術師に感謝しなければ」
「な、なるほど……?」
「納得しようとするな、横光」
正面の照れたような笑顔と、左肩から聞こえる忍び笑い。ぱたぱたと揺れる満足げな尻尾が見えて、これはもう仕方ないな、と菊池も笑いながら天井を仰ぐ。
――この図書館に籍を置く者は、理解しているのだ。たとえ姿形が変わっても、一度失った友人達ともう一度日々を過ごせる、その奇跡と僥倖を。
「よーし分かった。幸せついでに甘味でも買いに行くか、散歩もかねて」
散歩、という単語に反応した二匹が足元を駆け回る。花見団子は終わってしまっただろうが、桜餅ならまだ店先に出ているかもしれない。
リードを取ってきます、と嬉しそうに笑う弟子を見送って、こちらも簡単に身支度を整える。好奇心旺盛な弟子二人に、同じく何にでも興味を示す、弟子そっくりの子犬が二匹――今日も大所帯だ。
開いた窓から、春の名残が風に乗って、部屋の中へ舞い込んだ。鼻先を掠めた薄紅の花弁に、子犬がくしゅん、と鼻を鳴らす。その様子を笑って眺めながら、菊池は弟子達のストールを手に取った。
タイトルは「ファタモルガーナの館 -Reincarnation-」のサントラから
新感覚に対して目が狂いまくってる菊池さんと
菊池さんには絶対の信頼を置いて、全力で甘える新感覚が好き…
人目があるときは、割とドライだけど、身内だけだと
無意識にベタベタに甘やかしてると良いなー、とか。
犬と戯れる菊池さんとか、頬っぺた摘ままれる横光とか
甘えっ子な川端、もっと弟子に食べさせないと、とか思う菊池さんとか
好きなもの全部乗せです。満足!