ここは奈落の花溜り:夾竹桃


 ――男は中庭で図書館の外観を眺めていた。
 少々レトロなその外観は、多少古びた印象だが重厚な装飾で、どこか人を威圧するような雰囲気を持って佇んでいる。しかし眺める彼には、十分満足のいくものだったようで、男は満足げに目を細めた。
「かんちょう」
 不意に、男の背中にやや舌足らずな声が掛けられた。男が振り向くと、同じく中庭の少し離れたところから、十くらいの子供が、こちらに向かって手を振っている。白の着物に墨色の袴。大げさに揺れる腕に合わせて、幾何学模様の首巻と、肩で括った紫の髪が揺れた。

「――若紫だな」
 無邪気に笑う子供に手を振り返して、館長と呼ばれた男は、小さく笑いながら子供の姿を眺める。
 ここに来た当初は、彼の服の裾を掴んで離さなかった子供も、なんとかこの場所に馴染んだらしい。館内をあらかた探索し尽くした四日目の現在、子供は男を伴って、中庭から裏庭への探検中だ。
 外から眺める図書館の外観や、アプローチはそれなりに整えられてはいるものの、中庭や裏庭は全くの手つかずである。正体不明の木材は茂みに潜み、苔は以前の図書館の基礎石に微睡む、四阿だった朽ちたベンチに野茨が這う。
 けれど、そんな荒廃した庭園も、子供にとっては格好の遊び場になるらしい。手を振った子供は、袴の裾に泥をつけ、着物の袖端を茂みに引っ掛けながら、あちらの茂みからこちら、こちらの瓦礫から向こうへと、駆け回っている。
 外見や晩年の記録では、落ち着いて思慮深い印象だったが、本来はこちらの方が本質なのかもしれない。
 さて、この先何をどう教えていくべきか、そう思案して、これでは本当に光る君だな、と男は自嘲気味に笑う。笑ったところで、もう一度、かんちょう、という声がした。
 どうした、と声のする方見れば、どうしてそうなったのか、子供が少し先にある大木の枝に引っかかっている。木の葉を頭に乗せ、短い手足をばたつかせる姿は、さしずめ畑の網にかかった子ダヌキだ。
 絡んでしまった髪と首巻きの端を、木の枝から丁寧にはずし、その体が落ちないよう子供を抱え上げる。
「これは、とんだ若紫だな」
「少し、油断をしました」
 一人前に、むう、と膨れる頬に、思わずこちらの口元も緩む。やれやれ、と抱えた子供を腕から降ろそうとして、金の瞳が、彼の肩越しの池に向けられているのに気付いた。
 視線を追った先、荒れた池の対岸に、小さな白い花と細い葉を一面に湛えた木が、池をのぞき込むように茂る。そして、そこから絶え間なく落ちる白い花が、水面に雪原のような花筏をつくっていた。子供の興味を引いたのはこれだろう。
「夾竹桃だよ」
 身体全てに毒を持つ、という性質に見合わない清廉な花姿は、その身に纏う毒とも相まって、頑で潔癖な少女を思わせる。
「きれいです……どこに行くの?」
 池の水面は穏やかだったが、花筏はゆっくりと池の奥にある暗がりへ流れていく。それを眺めて、首を傾けた子供に、男は池の端を指で示した。
「見えるかな、茂みの下の方に水路があって、そのまま暗渠に入る」
「あんきょ」
「地面の下に流れている水路なんだが……」
理解できるか不安になって、顔をのぞき込むと、聡い子供はこくんと頷く。
「見えなくなってしまいます」
「路に落ちて、人に踏まれてしまうよりは良いだろう。運が良ければそのまま川に出て、海まで行ける」
 実際は、その前に沈んでしまうものがほとんどだが、それは口にしない。
「海……」
「ああ」
 ぱちぱちと目蓋を開閉する子供が「海」に何を思うのか、男にはわからない。
「――さて、この向こうはもう見たか」
 首を振る子供を地面に降ろしてやりながら、少しいたずらめかして笑いかける。
「そろそろ鉄線が頃合いだが……去年はなかなか面白い所に絡まっていて……」
「見てきます!」
 思惑通り、目を輝かせて走りだそうとする子供をいったん制止し、男は子供の首元で絡まっている首巻きを解く。子供特有の、細い喉元が露わになった。
「今日は預かろう、また引っかけると危ない」
 気をつけるように、という念押しに、はあい、笑顔でと駆け出す子供は、あいかわらず袴の裾を茂みにひっかけ、木の葉を頭に乗せながら、低木の下をくぐり男の視界から消える。
 近いうち、洋装を手配しよう。そう思いながら、その背中を苦笑いして眺めた男は、手元の首巻きに視線を移した。
 幾何学模様の首巻きは、新感覚派の象徴として子供が子供たる所以だったが、最早ここでは必要のない物だ。彼の派閥は彼一人の物で、彼の盟友が、此処に姿を見せることは、決してないのだから――

「……」
 しばらくの逡巡の後、彼は手にしていた首巻きをそっと池に放り、踵を返した。
 首巻きはしばらく花と一緒に水面を漂っていたが、やがてゆっくりと身を沈め、小さな泡音を最後に、池の中へ姿を消した。後には、清廉な白い夾竹桃が浮かぶ池が広がるばかりである。
 ――かんちょう、はやく、と呼ぶ子供の声が遠くで響いて消えた。


『ここは奈落の花溜り』
お題:エナメル
   

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