ここは奈落の花溜り:鉄砲百合


 ふと漂ってきた花の香りに、横光は顔をあげた。肩で括った紫の髪が、羽織った黒のケープの上で、ささやかな音を立てる。
 八月の午後二時過ぎ。図書館の広い閲覧室には、彼の姿しかない。時刻は、この季節で一番暑い時間帯だが、図書館の空調と建物を覆うように植えられた庭木のおかげで、影になっている閲覧室に届く夏の気配は、窓越しに届く微かな蝉の声だけだ。
 横光はそのまま、香りの出所を探して首を巡らす。弾みで、椅子に敷いていたクッションが揺れ、慌ててバランスをとった。閲覧室の大人用の椅子と机は、まだ十歳程度の外見の彼には、高すぎて足が付かないため、一時的な間に合わせとして用意されたものだ。
 机の上に開いているのは、海外の子供向けの童話集と辞書。この図書館は、もともと蔵書が少ないが、子供が読めるようなもの、となるとさらに少ない。館内の読める本をあらかた読み尽くして、困ってしまった横光に館長が手渡したのが、この一式だ。午前の涼しい時間帯は庭で遊び、午後の日が陰るまでは、閲覧室で洋書の翻訳に取り組むのが、彼のここ最近の日課になっている。
 横光は少し考え、机の上の辞書を閉じ、途中のページに栞を挟んでから、反動を付けて、椅子からとび降りた。肩と背中で洒落たデザインのケープが揺れる。ブラウスにケープ、膝丈のズボンという洋装は、袖口の釦と複雑な胸紐で横光を辟易させたが、この静かな図書館で、父親のように彼の世話を焼いてくれる館長と揃いだと思えば、そう悪くない。なにより、初めて着せて見せた時の、館長の満足げな笑顔と頷きに、どこか誇らしく嬉しくなったのだ。その時のことを思い出した横光は、少し口角をあげ、閲覧室の扉を開けて廊下に出た。

 姿無く漂う香りを追いながら廊下を歩き、閲覧室にほど近い部屋の扉をそっと開く。
 こっそりと中を覗き込むと、やはり香りの出所はここだったらしい。横光の目に、テーブルに置かれたふたつの大ぶりな花瓶と、そこに溢れるように生けられた鉄砲百合が映る。さらにその合間から、癖のある黒髪をハーフアップにし、クロークを羽織った背中が見えた。
「館長」
 横光の控えめな呼びかけに、三つ目の花瓶を用意していた背中が、ゆっくりと振り向く。柔らかに笑う口元と手招きにしたがい、部屋に飛び込むと、花瓶の百合が笑うように揺れた。
「読書は終了か」
「はい、今日の分は……ええと半分くらい」
「なるほど、気に入った話はあったかな」
「英国の、動物のはなしが特に」
 それは良かったと微笑む館長は、横光のケープを止める胸紐を結び直す。袖口の釦にはだいぶ慣れたものの、複雑で、羽織った上から結ぶ胸紐を、横光はまだ上手く結ぶことができない。そのため、館長は彼をみるたび胸紐を直してくれる。忙しい手を煩わせて申し訳ないと思いつつ、構われるのが嬉しい、というのは小さな秘密だ。
「裏庭の百合ですか」
「ああ、あとは貰い物で少しね」
 光を透かす淡い黄緑の茎と、雪花石膏を思わせる花弁の白は、見ているだけでも涼やかな印象を受ける。
「どこかに飾るのですか」
「こことロビー……少し余ったから事務室にどうかな」
 横光の問いに、胸紐を結び終えた館長が、やや小さめの硝子の花瓶を用意しながら、笑って答える。良いと思います、と同じく笑って頷いた横光は、ふと思いついて、ためらいがちに口を開いた。
「――あの、この百合、手前が持って行っても良いですか」
 少し困ったふうな館長の表情を見て、事務室の方です、とあわてて言い添える。
「少し遠いぞ」
「へいきです……館長のお手伝いがしたくて」
 駄目ですか、という横光に、いいや、と笑った館長は、硝子の花瓶に手早く花を生け、遅くなっても良いから転ばないように、と言いながら手渡した。

 事務室の場所は半地下で、閉架と同じフロアになる。まばらに本が入る書棚を並べた開架を抜け、両手に抱えた花瓶を落とさないよう、注意深く階段を降りれば、そこは図書館のバックヤードだ。
 上階と同じく、使い込んだ赤い絨毯が敷かれた廊下を、横光はいつもより少し丁寧に歩く。冷房の効いたこのフロアは、半地下ということもあって、廊下のどこにも窓が無く、上の階で聞こえていた蝉の声も届かない。生き物の気配が一切しない、静謐で粛然とした空間。足元の赤い絨毯が、自分の靴音まで吸い込んでいる事に気付いた横光は、少しだけ足を早めて、目的の部屋の扉を開けた。
 元は研究室だったというそこは、珍しい図鑑や薬瓶が置かれていて、入るたびに横光の好奇心を擽る場所だったが、今は両手に抱えた花瓶がある。まだ図鑑で見たことがない形の骨や、淡く光る薬瓶の並んだ棚の前を通り過ぎ、奥の事務机に花瓶を置いた。そのまま数歩離れて、壁の上にある明かり取り用の窓から、光が入るのを確認する。本来なら、光がとどく場所が似合いの花だが、ここでは仕方がない。
 少し調整をして、良い場所に花瓶をおいた横光は、さて、と左右を見渡す。手伝いをしたい、という申し出に嘘はないが、魅惑の一室を、こっそり探検したい、という好奇心にも嘘はつけないのだ。
 見渡す部屋の左右には、同じデザインの扉がつけられていた。向かって右側は、横光も何度か館長と一緒に入った事がある。主に資料や、ラベルの予備などが保管されている、いわゆる備品庫だ。横光は左の扉に近づいて、手を伸ばして真鍮のドアノブを握る。
 扉を開けるな、と言われたことはないが、自由にして良い、とも言われていない。少し緊張気味に廻したドアノブは、彼が拍子抜けするほど素直に回った。

 開いた扉の向こうは、暗闇だった。ちょうど影に入っているのだろう、事務室と同じく明かり取りの窓はあるが、夏の昼間だというのに、光は全く入っていない。横光は、一瞬その暗さにたじろいだが、ここまで来たら後に引けないと、そっと部屋の中に歩を進めた。
 見渡した部屋の広さは、先ほどの事務室と同じか、やや大きいくらいだろう。部屋の中央には、食堂や会議室に置かれるような長机がある。しばらくすると、暗さに慣れてきた目に、壁全体に作り付けられた本棚と、そこに表紙を前にして置かれている本達が見えた。
「十三、十四……十七……十九……」
 近づいてよく見ると、本棚には番号ラベルが付けられているようだった。どうやら、本棚の中の本と対応したラベルが貼られているらしい。ラベルがあっても本がない、という棚もある。そして、どの本も表紙や小口――おそらく中身もそうなのだろう。どこかしらが黒く汚れている。
「なんだろう、これ……」
 さらに顔を近づけてよく見ると、それは黴や煤汚れというよりは、タールのように粘度が高い液体に浸したような汚れ方だ。
 ――ああ、これは
 改めて横光は部屋の中を見渡す。
 隣室から香る、むせかえるような百合の匂い。
 外界から隔絶された、命の気配が一切ない、沈黙と暗闇で支配される空間。
 ――本の……彼らの
 眩暈のような既視感が、脳裏に浮かぶ。自分は、この光景を知っている。背中に、暑さからではない汗が流れるのが分かった。
 言い知れぬ不安を紛らわせるように、思わず目に付いた、麻の葉模様の表紙に指を伸ばし――
 しかしその指を、漆黒の何かが掴んで、強い力で引き留める。
 思わぬ力で捕まれた左手首と、肩に掛かる冷たい重み。何より背後に感じる気配に喉の奥から、ひっ、と小さく声が漏れ、膝ががくがくと震えた。自分の背後に、何か恐ろしい物が居る。振り返って背後を確認したいが、それ、を見てしまうのが恐ろしい。思わず身を竦めて、ぎゅっと目を瞑った横光の耳に、それ、の声が聞こえた。
「――と、すまん、そこまで驚くとは」
「……っつ……館長……」
 聞き慣れた声に、おそるおそる振り返ると、黒のクロークに、癖毛をハーフアップにした男――何のことはない、自分の親代わりともいえる館長が、横光の肩に手をかけ左腕をそっと握っていた。おそらく漆黒の何かと思われたのは、彼のクロークとスーツの袖口だろう。自分は何をおびえていたのか、と横光は、ほうと息を吐いた。この図書館には、ほぼ横光と彼しかいないうえ、この事務所まで入ってくるのならば、館長しかありえない。
「勝手に入ってごめんなさい」
「こちらこそおどかして、すまなかったね」
 未だに笑っている膝を庇いつつ、素直に頭を下げた横光の肩を、なだめるように館長の掌がやさしく叩く。その口元に浮かぶ笑みは、いつもどおりの鷹揚で、頼りになる父親のような雰囲気のそれだ。はじめから横光の好奇心など、お見通しだったのかもしれない。恐ろしい気配、と感じたのは、無断で仕事用の部屋に入った、という自分の後ろ暗さが感じさせたものだろう。
「この本は、触ってはいけないのですか」
 勝手に入室したことを咎められなかったのに安堵して、黒ずんてしまっている本たちに視線を向けながら、横光は先ほどからの疑問を尋ねる。
「ああ、表紙に付いているのは猛毒なんだよ、危なかったね」
「えっ」
「冗談だ」
「館長っ」
 思わず声を上げた横光に、館長はくつくつと笑いながら答えた。
「修繕をしているのだが、忙しくてね……ここにある本達は特に手が掛かる」
 しかし、君に見つかってしまうとは、そうため息をつくように、館長は苦笑いをこぼした。その様子が、隠していた悪戯をみつけられた自分のようで、横光もつられて、ふふ、と笑う。
「だからですか」
 なるほど、確かにこの本達の黒ずみ具合は、手袋が必須だろう。職員らしい職員が館長一人というこの図書館で、仕事の合間に――どんな仕事をしているのか知らないが。これだけの本の修繕をするのは大変だろう。 
「……そうだ、おどかしてしまったお詫びに、これをあげよう」
 ふと懐に手を入れた館長は、話題を変えるように、何かが包まれた懐紙を取り出す。そのまま首を傾げた横光の口の中に、指で摘んだ何かを放り込んだ。舌で形を探ると同時に、ほろほろとした甘さが口の中に広がる。
「……甘い」
「琥珀糖だよ」
「わあ」
 覗き込んだ懐紙の中には、宝石のような色とりどりの砂糖菓子が包まれている。
「さて、そろそろ午後の休憩にしたいのだが……」
 これに合うお茶を用意してくれるかな、という館長の芝居がかった台詞に、一瞬きょとんとした横光は、一拍おいて、はい、と笑顔で頷いた。午後の休憩の準備は、最近覚えた仕事の一つだ。
「任せて下さい」
 落ち着きを取り戻した膝を動かし、先に準備しています、と事務室を抜け階段を駆け上がる。口の中に残る甘さと嬉さで、先ほど感じた既視感が何だったかという疑念は、茶葉の種類をどうするか、という問題に置き換わり、横光の頭からすっかり消えてしまった。


 宵闇の中、ぼんやりとした視界に、ベッドサイドに置かれた硝子の一輪挿しが目に入る。生けられているのは、午後の鉄砲百合で、館長がどこからか器を探して、横光のために用意してくれたものだ。
 彼はちいさく笑って、ベッドに入る前に眺めた図鑑の内容を思い出す。
「ユリ科の多年草……花弁は六枚あるように見えるが、筒状……雌雄同花……」
 夢現をさまよう頭の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
(ああ、これは)
「花言葉は……威厳、純潔……甘美……」
 暗い部屋の中で、鉄砲百合の白がほのかに浮かぶ。
(本の……手前らの、墓標なのだ)
 微睡む意識と視界の中で、雪花石膏の白はゆっくりと輪郭をなくしていく。
 瞼が落ちる寸前、何かを聞いた気がしたが、昼の冒険に疲れた子供には、何も思い出せなかった。


白百合の花言葉、威厳、純潔、甘美
――あるいは、死者への手向け。


『ここは奈落の花溜り』
お題:エナメル
   

 

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