冬の瞼 春の腕
「川端、大丈夫か?」
「ええ……」
数段先を行く横光が、川端を振り返って尋ねる。川端は、それに軽く頷き返して、足元の石段を一段上った。
閑静な住宅街の奥にある神社だったが、意外にも参道が長い。入り口の鳥居をくぐって、しばらく上っているのだが、今のところ拝殿が見える気配は無く、目の前にはただ石段が続いている。
「利一、よければ先に……」
「いいのか? わかった、上で待っている」
一度足を止めた川端は、先を行く横光に声を掛けた。同じく足を止めた横光は、一瞬迷うようにして川端を覗ったが、友人の顔を見て納得したのか、ひとつ頷いて、軽快な足取りで石段を駆け上がっていく。横光の括った髪が、子犬のしっぽのように跳ね上がるのを眺めながら、元気ですね、と川端は笑って友人の背を見送った。
横光を見送った川端は、石段の両脇に並ぶ風景を眺めつつ、ゆっくりと石段を上る。転生し、身体は年若い姿になったが、生前に染みついた記憶と経験が、足を鈍らせるらしい。対する友人は、川端に比べ年若く逝ったうえ、いくつかの記憶が曖昧らしく、外見相当の快活さだ。そういえば、あの友人は生前から運動神経が良かった。そんなことを思い出し、川端はちいさく苦笑いをこぼした。
図書館から少し足を伸ばしたこの神社は、話に聞いていたとおり、梅の名所らしい。ちらほらと花を付けた早咲きの梅枝が、常緑の松とともに、石段の両脇に並んでいる。平日の午前、早い時間とあって、神社の周辺は人もまばらだった。石段前の鳥居を越えてからは、自分たち以外の姿を見ていない。澄んだ空気に混じる、微かな梅の香りを感じながら、川端は軽く息を吐く。
帝国図書館、という場所に川端が転生されて、早数ヶ月。紆余曲折はあったが、文学を守る戦い、という仕事にも、かつて見送った同輩や先達たちが居並ぶ、図書館という場所にも慣れてきた。衣食住足りた生活に、懐かしく賑やかな周囲の人々。川端にとって、これ以上望むべくもない日々のはずだ。それでも、川端は時折、瞼の裏にいつかの雪原を見ることがある。それはたとえば、孤高と孤独を練り上げたような、浸蝕者に相対したとき。たとえば、タイミング悪く、図書館の暗いホールに、一人取り残されてしまったとき。そして先ほどのように、かつての盟友との、埋めようのない時間の隔たりを感じたとき――
「……理解はしているのですが……いけませんね」
かぶりを振って、さらに足を進める。
住宅街の中の小さな神社だったが、それなりに歴史のある場所らしい。石段の端で深緑にむしている苔に、白梅の花弁が落ちるのが目に入る。その白い花弁が、風に舞う雪片のようで、川端は思わず視線を外した。
この早春の花見を、さりげなく勧めてきたのは師匠の菊池だ。近場だが、よい花見の場所を聞いた、二人で行ってこい、と一昨日の昼時にメモを放られた。目配りの利く師匠なので、川端についても、何か察するものがあったのかもしれない。
「これは、手土産でも持って帰るべきでしょうか……」
何かと忙しい師匠が、気に掛けてくれたのだ。訪れた証拠に、梅の一枝でも持って行けたら良いのだが、神社で枝を折るのは罰当たりだろう。ならば、師匠が喜びそうな短編でも、と川端は石段を上りつつ、草案を練り始める。人の気配に驚いたのだろう、どこからか聞こえる鳥の羽音と共に、数枚の花弁が、川端の足元に音も無く落ちた。
短編の草案をまとめあげた川端が、ふと顔を上げると、早春の香りが鼻腔をくすぐった。どうやら、参道も終わりに近づいていたらしい。向こうの方から、先に上りきっていた横光が、川端を呼ぶ声がする。ゆっくりと上っていたせいで、だいぶ待たせてしまったのだろう。いらぬ心配を掛けぬように、川端は残りの石段を早足で上る。
「すみません、利一、いま――」
行きます、と肩で息をしながら、石段を上がる。ふいに、自分の足先と石段しか無かった視界に、横光の手甲を付けた掌が差し出された。反射的に取ったその腕に引き上げられるように、川端は最後の三段を上りきり、顔を上げ思わず息を飲む。
「…………」
そこは一見、社務所もない、こぢんまりとした神社だったが、社の奥と周辺を囲むように植えられた早咲きの白梅が、満開の白い花片を吹雪のように散らしていた。相当な数の木があるらしく、ときおり吹く風がやんでも、落ちる花片がなくなることがない。小さくひらけた拝殿前の地面や、拝殿の屋根、そして目の前の横光の肩も、舞い落ちる花片で白く覆われている。
「これは……」
音も無く降り積もる花弁が、川端の瞼の裏で、寂寥と死の静寂に満ちた雪原に重なる。けれど、あのときとは違うのは、こちらの言葉など待たず強引に引かれる腕と、友人の屈託のない、朗らかな笑顔があることだ。そして、その周囲を舞う白の縁取りは、ほのかに紅く、命の色をしている。その光景は――
「……とても、美しいです」
師匠がこの場に居たら、苦笑しそうな安直な言葉が、川端の口からもれた。それを聞いた横光は、言葉通りに受け取ったのだろう。そうだな、と楽しげに笑いながら頷く。
「来たかいがあった」
言いながら、風に舞う花片を追いかける姿は、外見相当――というより、むしろ子供だ。横光の伸ばした指が、細い枝の先をかすめる。友人の穏やかな笑い声とともに、白い花弁が川端の前を横切った。
「ええ……本当に……」
――そう、来たかいはあったのだ。横光の言葉に同意しながら、川端は瞑目し、羽織の袂を強く握る。あの雪原を歩き続けていれば、遅かれ早かれ、己も本の中の化け物と化していただろう。それを、懐かしく温かな腕によって引き上げられた。引き上げられた先にあったのは、川端がどんなに希っても、ふれることの叶わなかった春陽だ。
「利一……」
「川端?」
川端は、こちらを見返す横光の腰に手を回し、抱え上げる。押し上げられた横光の指が、花を付けた一枝に触れた。
「どうです?」
「や、見事な香りだ、が・・・・・・」
存外やればできるものだと、内心満足して頷いていると、頭上からなんとも言い難い、歯切れの悪い声がかかる。
「川端……その、これは……」
川端が見上げると、耳の端を朱に染めた友人が、困ったようにこちらを見下ろしていた。思わずとはいえ、それなりの背丈の成人男性を、これまた同じ年頃の男が抱える図、というのは些か外聞が悪いだろう。
「……すみません」
「いや、まあ……これはこれで、良い景色だが」
「そうですか」
「……抱え直さないでくれないか」
困惑と不機嫌に、少しだけ愉しみを混ぜた横光の声色に、川端の口元が弛む。
「利一、遙かに知る是れ雪成らざるを――」
「暗香の来たれる有るが為……だったか?」
「ええ……もう少しだけ、私の春を愛でさせてください」
川端の言葉に、横光の返答はなかったが、これは是ということだろう。瞼裏の雪は未だ降り続けるだろうが、傍らにこの春の陽があるかぎり、あの雪原に川端が戻ることはない。
吹く風は冷たいが、暦の上ではもう春が来ている。腕の中に積もってゆく花弁と、やわらかな花の香りに、川端は小さく笑みをこぼした。
ちょっとタイトル直球過ぎたかな、とは思っている。
ラストの二人の台詞は、王安石の漢詩梅花から
私はこういう、ぐるぐる拗らせて依存しながら救いを求める人と
なんかよく分からん大雑把さで無意識に救っちゃってる人の組み合わせが好き