ここは奈落の花溜り 番外:珈琲
ことこと、と規則的な泡を立てるフラスコのガラスに、紫の髪を肩で括った、真剣な面持ちの子供の顔が映り込む。見た目が十になるかならないか、といった子供に、食堂のテーブルは、まだ少し高いらしい。テーブルの上に置かれたそれを、小さく背伸びしながら見つめる子供は、フラスコの下に置いた、アルコールランプに火を入れてやってから、微動だにしていない。コーヒーセットを用意しながら、その後ろ姿を眺めて、男は小さく笑みをこぼした。
一昨日、図書館の倉庫から発掘した、サイフォン式のコーヒーメーカーは、その構造とフォルムで、子供の心を掴んだらしい。
食堂に置かれた重厚な柱時計は、二時を少し回ったところだったが、めずらしく、そわそわと時計を気にする子供に勝てず、ついでに準備もあるから、と今日は早めのお茶の時間となった。
「どうだ」
「館長!はい、おもしろいです」
男が声をかけると、子供は我に返ったように振りかえる。紫の髪に縁取られた幼顔が、目を輝かせて笑った。元々は好奇心旺盛な性格だ、普段は触れることのできない錬金道具だが、それとほぼ同じ器具が使えるとなれば、自ずと気分も上がるのだろう。
それは良かった、と男は笑って頷きながら、横に置いてあったロートに、挽いた粉を入れる。沸騰したフラスコにロートがセットされると、フラスコの湯がロート側へ上昇し、フィルターを押し上げた。焙煎された豆の薫りと共に、珈琲が抽出され、隣の子供が、わあ、と嬉しそうな声を上げる。
「そろそろか、あとはこれを攪拌する……やってみるか?」
「やります」
力強く頷く子供に、攪拌用の木ベラを握らせ、両脇を支えて抱え上げる。少々たどたどしいながらも、子供の生真面目な手つきでロートの粉が攪拌されると、サイフォンの中の珈琲が、三層に分かれた。
「なかなか上手いな」
「はい」
はにかむように笑う子供を床におろして、アルコールランプを消し、二度目の攪拌をする。しばらく待つと、抽出された珈琲が、フラスコの中へ戻っていった。ロートを取り外し、フラスコの中身をカップに注げば完成だ。手間はかかるが、見た目と工程で楽しめるのは悪くない。
カップに注いだ珈琲を見て、満足げに笑ったところで、男はこちらを見つめる視線に気がつく。どうやら、子供が興味を持っていたのは、煎れ方ばかりではなかったらしい。
「少し早いと思うが……」
「飲めます……すこしだけ」
一応、子供の見た目ということで、いままで珈琲そのものを出したことはなかったのだが。
「なかなか苦いぞ」
「……」
無言の訴えに、そういえばこの子供、生前は存外頑固者だった、と思い出す。しばらく考え、まあ良いだろうと、空いているカップに二センチほど注いだ。やはり、自分が携わった実験ならば、結果まで見届けたいのが人の性だろう。
「――どうかな」
「んん……」
カップを受け取った子供は、ひとくち口に含んで、小さく呻きながら眉をしかめた。予想道理の反応に、男の口元が思わずゆるむ。それでも注がれた珈琲を飲みきったのは、褒めてやるべきだろう。
「もう一杯どうかな」
「――ごめんなさい」
男がおどけて二杯目を差し出すと、涙目になり、舌を出した子供の返答が返ってくる。素直な様子に、くつくつと笑うと、恨めしそうな視線が、下からこちらをねめつけた。
「すまないね」
少し意地悪をしすぎたか、と二杯目のカップに、用意していたミルクを同量――やや多いくらいに足す。砂糖を入れないのは、子供の意地に敬意を表した結果だ。こちらをどうぞ、とやや芝居がかった仕草で、うやうやしく差し出されたカップを受け取った子供は、今度は一息にこくりと飲んだ。
「……おいしいです」
「それは良かった」
「……館長は平気なのですか?」
この苦いの、という問いかけに、男は頷く。
「ああ、慣れればこの苦さが癖になる」
「本当に?」
もちろん、と答えると、子供はなんとも複雑そうな顔をした。これを毎日飲む気にはなれないが、大人相当の扱いには憧れる、といったところだろう。
「そのうち飲めるようになるさ」
「手前も、はやく飲めるようになりたいです」
顔は真剣そのものだが、そうはいっても、皿に載せたイチゴジャムのクッキーをはなさないあたりが、まだまだ子供だ。やれやれ、と男は目を細めて、カップに口を付けた。珈琲独特の香りと共に、いつもより深い酸味と苦味が口の中に広がる。どうやら、少し長くドリップしすぎたらしい。見下ろした手元のカップの中では、黒々とした珈琲が小さく渦を巻いている。――そう、はやく慣れれば良い。飲み干してしまえば、この暗い闇のような黒さや苦みも、背徳を含んだ愉しみに変わるのだから。
ふ、と男が密やかに笑ったところで、上着の裾がちいさく引かれた。
「・・・・・・館長?」
「ん」
呼ぶ声に目線を移せば、カップを両手に抱えた子供が、小首を傾げてこちらを見上げている。急に黙り込んだ保護者を心配したらしい。見上げる子供の口の端には、クッキーの欠片が付いている。その様子は、背徳とはほど遠い無邪気さを縁取り、まるでこちらの思惑を、無意識に拒絶しているように映る。内心、これは手強いな、と指先で子供の口元を拭ってやりながら、男は苦笑いして口を開く。
「いや、なんでもないよ――ところで、私の分のクッキーは何処へ消えたかな?」
「・・・・・・」
返ってくる返答は、可愛らしい後ろめたさの沈黙。珈琲の黒さと苦みを覆うように、柔らかなミルクの白と、甘いイチゴジャムの香りが静かな食堂に広がる。重厚な振り子の柱時計が、低く笑うように、午後三時の鐘を鳴らした。
サイフォン式のコーヒーメーカーってわくわくしませんか?
あと、ちょっとほのぼのに寄せたこの二人を書いてみたくて