Cher Hortenasia
雨樋を溢れた雨水が、小さな音をたてて窓の桟に跳ねた。細かく散った雨粒は、窓硝子に淡く光る水滴をつける。
川端は頁をめくる手を止め、そのまま背後にある窓の外へ目をやった。
硝子越しに、薄墨を刷いた空と、そこから落ちる絹糸のような雨。窓際に植えられた西洋紫陽花の、まだ淡い色が目に入る。そのまま室内に目線を戻すと、川端の肩口にも、深い紫の紫陽花が咲いていた――いや、そこにあるのは、友人である横光の頭だ。今朝がたまで、短編の推敲に四苦八苦していたという彼は、先ほどまで船を漕いでいたはずだが、いつの間にか、すっかり午睡に入ってしまったらしい。
「……どうしましょうかね」
小さくつぶやいて、けれど川端はふふ、と口元に笑みを浮かべた。すっかり寝入った横光は、こちらにもたれて、その頭を川端の肩にあずけている。頭と体重をあずけられた川端は、首と手元以外の身動きがとれないが、これも友人が気を許している故、と思えば、その重さも憎めない。
窓の外に咲く紫陽花よりも、一足先に色づく紫の頭と、稚い寝顔に目を細めながら、川端は見るともなしに、前方に広がる館内を眺めた。
全国的に梅雨の時期である。帝国図書館があるこの地域も、三日ほど前に梅雨入りの発表があった。川端は、今年の梅雨要入りは例年より早い、と昨日の新聞に記載があったのを思い出す。平日の午後、やや雨足の強い日とあって、今日の図書館の利用者は少ない。川端の確認できる範囲には、初老の紳士、中年の夫婦。おそらく大学生だろう、今風のファッションをした若い女性と、青年が見える。閉館時間も迫っているので、これ以上人が増えることはないだろう。どうやら、午後の利用者数は両手の数で足りそうだ。規模の大きな帝国図書館に対してはもったいなくもあるが、おかげで川端たちは、図書館奥で一番の良席を独占できている。
ふと、並ぶ本棚の向こうから、こちらに歩いて来る初老の紳士と目が合った。こちらに気付いた紳士が、足を止めて軽く会釈をする。川端もそれにあわせて、苦笑いをしながら頭を揺らす。こちらの状況を察したのだろう。老紳士はそれに小さく笑い返して、今来た通路を引き返していった。川端は、その後ろ姿を見送りながら、気を遣わせてしまった、と申し訳なく思いつつも、隣で寝ている横光を起こすことがなく良かった、と安堵した。妙なところで矜持の高い友人は、拗ねるとたいそう可愛らしいが、それと同じくらい厄介なのだ。
苦笑いをこぼしながら、川端は手元の本に目を落とす。読みさしているヴェルレーヌの詩集は、あと数頁で終わりだが、すっかり集中力がきれてしまった。さて、とため息をつきながら、川端はこの先の予定を、頭の中で確認する。
すっかり人員の増えた図書館では、潜書の当番はまだ回ってこない。助手の依頼も、しばらくはないだろう。横光が手こずっていたのと同じテーマの原稿は、既に提出済みだ。もう一本依頼されていた短編の締め切りは、まだ少し余裕がある。図書館近くの住宅街にある紫陽花の生け垣も、そろそろ色を纏う頃だろう。せっかくなのだ、ついでに写真機を借りる手配もしておくべきか。そういえば今のうちに、氷菓子の店を調べておかなくては――去年は、何処の店に行くか迷って、結局入りそこねたのだ。週明けには、横光が茶席で使う用の茶碗を、一緒に見繕いに行く約束をしている。上手くすれば、目を付けていた花入れも、同時に手にはいるかもしれない。少し気が早いが、風鈴を出してもいいだろう。いや、今年も師匠が祭りに誘ってくれるだろうか。それならば浴衣を出すのが先だ。
「なかなか……忙しいですね……」
雨音に合わせて、つらつらと思いを巡らせながら、川端は小さく独りごちる。けれど、川端にとってそれは、総じて悪くない忙しさだ。少なくとも、生前に自身の手帳を埋めていた、あの空虚な寂しさを紛らわせるためや、残された者としての、半ば義務で行うそれではない。――そういえば、あの手帳は今どうなっているのだろうか。そう川端が思ったとき、肩口にのった紫陽花がちいさくゆれた。
起こしてしまったか、と一瞬動きを止める川端をよそに、横光の頭はゆっくりと川端の肩から落ちていく。横光の頭はそのまま川端の胸元を滑り、最終的にこてん、と川端の膝の上に収まってしまった。その様子が――眠っている本人にそんな意図はないのだろうが。まるで過去に戻ろうとする自分を、引き留めるように思えて、川端は口元を緩める。
「……貴方は……ほんとうに……」
乱れてしまった横光の前髪を整えてやりながら、川端は思わずつぶやく。
――O bien-aimee.
先ほどまで読んでいた詩の、甘い仏蘭西語の響きが、胸のあたりで柔らかに響く。愛を囁くための言語、とは良く言ったものである。川端が依頼の原稿を仕上げるのも、骨董屋を覗くのも、明日の紫陽花の色を気にするのも――その明日を楽しみに思うのも、紫陽花色の彼がそこにいればこそなのだ。しかし、当の本人はその奇跡に気づいてもいない。
――Revons,c'est l'heure
「――そこが、貴方の良いところ、なのですがね……」
小さく苦笑いをこぼした川端は、周囲を確認すると上半身を屈め、横光の額に自分のそれを近づける。
「C'est l'heure exquise……」
川端の、聞こえるか聞こえないかという囁きに、眠っている横光の返答は勿論無い。身を起こした川端は、もう一度手にした詩集のページを繰った。閉館時間までは、あと二十分少々である。遠目に見えるカウンターでは、中年の夫婦が手続きを終え、笑いながら仲睦まじく、図書館を出て行く様子が見える。
外の雨は、まだ降り続いている。密やかに微笑む川端の背後で、雨樋を溢れた雨水が再び水音をたて、紫陽花の色を映す窓硝子に、また水滴をつけた。
ヴェルレーヌ「La lune blanche Paul Verlaine」
イラストのおまけとして付けるつもりが
思いの外長くなりました。
うちの川端は横光への思慕が濃密過ぎるんだよ…
あと、生前の川端先生の手帳は、予定がぎっちり詰まっていたというのを
聞いたり、文学館の展示で見たりしたので、帝国図書館では
もちょっと息を抜いて毎日を送っててくれたらなーという希望も込めて。