夕顔
『川横:夕涼み』のおまけSS横光が盆を抱えて襖を開くと、縁側に腰掛けている川端の後ろ姿が目に入った。
暑さを増す文月の太陽は、すでに地平に沈んでいたが、黄昏のかすかな残り紅が、縁側とそこに腰掛ける川端の輪郭を、淡く縁取っている。
横光が近づくと、それに気付いた浴衣姿の川端は、こちらを振り返り、おかえりなさい、と小さく微笑む。同じく浴衣の横光は、こちらも笑いながら、ただいま、と返した。川端は書き物をしていたようで、彼の腰掛けている辺りには、文字を綴った紙がいくつか散らばっている。
帝国図書館に呼び出されて以来、筆を止めてしまった横光とは対照的に、川端は生前からの日課を続けているようで、日々なにがしかの文章を書いていた。先ほど横光の視界の端に入った文も、研鑽を止めない美しい一文だ。そこに感じる、友人の文士としての才能。それと同時に、胸中でちいさく渦巻く羨望から目をそらし、横光は笑って声をかける。
「すまん、邪魔をしたか」
「いいえ……」
ちょうど切りの良いところです、そう言いながら、川端は縁側に散らばった紙を雑にまとめ、場所を空けた。横光は、その空いた縁側に、硝子皿に入った琥珀糖と、冷茶の入った茶碗をのせた盆を置く。
「食堂で茶を煎れていたら、頂いてな」
「色とりどりですね……」
盆をのぞき込んだ川端が、感心するように声をあげた。ふつう琥珀糖と言えば、生成りから淡い琥珀の地味な色をしているが、皿に盛られた長方形の砂糖菓子は、橙や桃、紫に薄荷と、目にも鮮やかだ。
「志賀さんの新作だそうだ。七夕に間に合わなかったと言っていたが――」
短冊に見立てるつもりだったのだろう、そう横光が言うと、川端は、ああ、と頷いた。
「あの方らしいですね……」
言いながら、川端の指が淡い色の菓子をつまむ。横光も川端の隣に腰を下ろして、菓子に手を伸ばした。薄荷色を口元に持って行ったところで、そういえば、と師匠からの言伝を思い出す。
「先生から、夕飯が食べられなくなるから、食べ過ぎるな、と」
「……どこの子供への伝言ですか」
むっつりとした川端に、言葉とは裏腹な子供の表情を見つけて、横光は思わず笑みをこぼした。
「まあ、気にかけてもらえるのは幸福な事だ」
「否定はしませんが……」
私、かなりいい歳なんですが、と琥珀糖を咥えたまま小さく呟いている川端に、そういう所だ、と内心苦笑いしながら、横光は視線を紙束に移す。
「短編か」
「掌編……ですかね。書いていないと落ち着かないので……」
夏のはじめに、二人揃いで仕立ててもらった、風を通す絽の浴衣が心地よい。軒先につるした風鈴が、涼やかな音を立てた。
談笑しながら琥珀糖をかじっていると、ふいに横光の鼻先を淡い香りがかすめた。顔を上げる横光の隣で、同じく川端も目線を宙に浮かせている。
「ああ、これか……」
「……ええ、もうそんな時間ですか」
視線のたどり着いた先は、二人が腰を掛けた縁側の軒に立てかけられている竹竿だ。
帝国図書館の裏手では、昨今の夏の暑さを凌ぐようにと、敷地のあちこちに、緑を匍わせて日陰にしている。植える者の好みによって、朝顔や糸瓜、鉄線など様々だ。そしてどうやら、この軒先には夕顔が植わっていたらしい。軒に添って、いくつか植えられている夕顔は、深い緑の葉の合間から、淡い宵の空に向けて、めいめいその白い顔をはにかむように覗かせている。
居残っていた黄昏も消え、空の色は瑠璃色に染まっていた。
「よければ一輪切ってこよう」
琥珀糖の器はすっかり空になっている。硝子皿に水を張り、夕顔の花を浮かべて返せば、風雅な返しになるだろう。そう横光が腰を上げようとすると、その浴衣の裾を川端が引き留めた。
「川端」
「――いりません」
おや、と横光が隣を見ると、川端は縁側に足を上げた。そのまま子供がするように、横光の膝に頭を預けて伏臥する。
「貴方を、常夏の女にはさせませんよ……」
浴衣の裾を握り込んで、こちらを見上げる仕草は、甘えたな子供そのものだが、伏せた瞼に収まる瞳は仄暗い。その琥珀色には、子供じみた悋気と微かな怯えが伺える。横光が、友人との隔たる時間の長さと、残酷さを知るのはこんな時だ。
この帝国図書館で、見た目には年の変わらない、対のような外見で、生前と同じように師を仰ぎ、同じように日々を送る。けれど、川端の視線や仕草、綴る一編の文字列――そこには、横光が共に歩けなかった数十年の影が見え隠れする。そして、横光はその暗闇を照らしてやることは物理的に不可能だ。
――ならば、と横光は口元に笑みをつくる。
「なるほど……こちらの頭中将殿は、誠実なお方とみえる」
冗談めかして言いながら、横光は笑って膝の上に乗った川端の髪を梳いた。
「……私は想い人を市井に逃げ込ませる甲斐性無しではありませんよ」
失礼な、と笑いながら息を巻く川端の瞳には、もう先ほどの暗い色はない。
「さて、どうだか」
「たとえ逃げても追いかけますよ、夢枕に立ちますからね……」
「これは恐ろしいな、六条の君は情が深い……川端、逆転していないか」
「……そうですね」
どちらからともなく吹き出して、天を仰いだ。軒先から望む宵の空では、姿を消した黄昏に代わって、真白い月が夕顔の白と対をなすように浮かんでいる。花を空に浮かべ、月に添わすことはできないが、この夕顔の香りが、独り暗い空に浮かぶ月の慰めにはならないだろうか。そんなことを思いながら、横光は膝に乗せた川端の頭を撫でる。
「――琥珀糖の返礼を考えねばな」
「なくても良いのでは……」
「そういうわけにもいくまい、あれだけの色を揃えるのは手間だっただろう」
「……まあ、そうですが」
友人の悋気は可愛らしいが、それと礼節は別問題だ。
さて、どうしたものか、と川端の旋毛をかき回しながら思案する横光の前髪を、夕顔の香りを乗せた風が揺らす。裏庭にある池の上を通る風は、ひんやりと心地よい。
ひときわ強く吹いた宵風に、ちりん、と軒先につるした風鈴が鳴った。風鈴に付けた短冊は、先日の七夕で余った一枚だ。
「…………」
揺れる風鈴を目で追っていた横光は、はた、と思い至った自分の考えに、視線を川端へ移した。同じ事を考えたのだろう、川端も風鈴を見上げている。
「川端」
「ええ、利一……」
目線を交わす二人の頭上で、短冊を付けた風鈴が、ふたたび、りんと音を立てた――
その日の夕食どき、届けられた硝子皿と、そこに添えられた短冊をみて、志賀は食堂で笑みを浮かべた。やはり、遊び心が分かる奴がいるのは良い、そう頷く席の向こう――食堂の奥で、子供のような理由で、師匠に小言をもらう弟子の姿があったのだが、混雑している食堂では、些末なことで気にする者はいない。
食堂の開けられた窓辺から、夕顔の香りをのせた宵風が吹き込む。友人と共に、師匠の小言を聞いていた横光は、その淡い香りを感じて、ちいさく微笑んだ。
横光への執着が強すぎて、スイッチが入るとヤンデレ気味になる川端と
それに気付きつつも、まあこれだけ想われてるのは幸せだな?って流される横光と
待て待て待て、と師匠兼お父さん兼常識人としてストップをいれる菊池の
ほのぼの()一門が好きです。
私はだいぶ性癖を拗らせている……