月めくり:君のための練習曲
「お、新作か」
覗いた扉の隙間から、めずらしく書き物机に向かっている弟子の後ろ姿を見かけて、菊池は思わず声をあげた。
集中していたところに声をかけられ、驚いたのだろう。一瞬肩を揺らした横光は、机の上に広げていた紙を乱雑にまとめた。そのまま、後ろに隠すようにして立ち上がり、勢いよくこちらを振り返る。
「菊池さん、でしたか」
「すまん、扉が開いてたんで……」
勢いに圧倒された菊池がかるく詫びると、いいえ、と横光は微かに笑った。
「何か書いているようだったから、つい気になってな」
横光が後ろ手に隠した紙束は、原稿用紙だ。
こちらに来てから、一向に文章を書く様子がなかった弟子が、はじめて何か書いている。その様子に、菊池はつい声を掛けたのだが、どうやらそれは、見られたくなかったものらしい。重ねて詫びる菊池に、横光は困ったような苦笑いを浮かべて、頭を振った。
「いえ、その……川端が、こちらに来られるかもしれないと聞いて」
「ああ」
横光の言葉に、そういえば、そんな話が出ていた、と思い出す。今のところ可能性、という話だけだったが、数十年来の盟友に再会できるとなれば、横光の期待もひとしおなのだろう。
「習作なんです、菊池さんに見せるほどのものでは……」
菊池が手近な椅子に腰掛けると、横光も書き物机の椅子に座り直した。はにかむような横光の表情につられて、菊池の口元もゆるむ。もう一人の弟子に会いたいのは自分も同じだ。ついでに自分も、小言のひとつふたつでも用意しておこうか。そう思いながら、菊池は横光の言葉に相槌を打つ。
「そうか」
「はい」
穏やかで、優しい沈黙が部屋の中に降りた。静かな室内に、開いた窓の向こうから、微かなピアノの音が聞こえてくる。練習中なのだろう、一生懸命な、けれど時々止まる拙いパッセージに、目の前に座る弟子の、子供のような顔が重なって、菊池は目を細めた。
「――それに手前も、後れをとるわけにはいかないので」
沈黙を破った横光は、立ち上がって原稿用紙を重ねた。その紙束を整えながら、川端には内密にしてください、とつぶやくように言う横光の頬は、ほんのりと朱に染まっている。照れたように視線を彷徨わせる横顔は、恋文を隠す初心な学生のようで、たいそう微笑ましい。
「うん、そんじゃ、川端がこっちに来たら、読ませてもらうとするか」
あいつの書いた原稿とあわせて、と菊池が笑ってやると、横光の方も花が開いたように笑った。菊池としては、その顔が見られるだけでも儲けなのだが、それは言わずにとっておく。ついでに言うなら、編集者として、原稿が気になるのも事実だ。
「ええ、かならず」
くすくす、と笑う横光の声に混じって、ピアノの音が聞こえてくる。
窓の外に目を向ければ、このあいだまで満開だった桜が、葉桜に変わりつつあった。新たな季節の始まりと、弟子達の再会の兆しに、自然と笑みがこぼれる。
微かに聞こえるたどたどしいエチュードは、相変わらず時々つっかえながら、それでも菊池の耳元で、愛らしいメロディーを奏で続けていた。