月めくり:病に似合う花の色
茂った樫の木を回り込むと、足元の涼しげなルリマツリの花が目に入った。
早朝、裏庭を巡る歩道を歩きながら、横光は半歩後ろを歩く友人を振り返る。
「川端、こちらだ」
「はい……」
横光と色違いの首巻きを巻いた彼は、横光に軽く頷いて、ちいさく微笑んだ。それを見とめて、こちらも微笑んだ横光は、さらに庭園の奥へと足を進める。
紆余曲折はあったが、横光の盟友――川端康成が、帝国図書館へ転生をはたした。紆余曲折の中身が複雑だったためか、以来川端は、横光の隣を離れようとしない。
「……利一、今日はなにを」
「茶席に飾る花を何本か切らせてもらう予定だ」
許可はもらってあるから、と川端に返して鋏を見せる。雛鳥が親の後を追うようだ、と師匠は苦笑いをこぼすが、それも今だけだろう、と横光は思う。生前からのあれこれが影響している様だが、元は賑やかな交流と、知的な会話を楽しむ質だ。遠からず、古くからの知り合いや、横光が生前会ったことのない、若い面々とも親しく言葉を交わすだろう。そうすれば、自分の通訳など、不要になるだろう。それは友人にとっては喜ばしい事だが、どこか寂寥を覚える自分に、横光は内心苦笑いをこぼす。
「女々しいことだ……と、ここだ、川端」
「……ええ」
たどり着いたのは、裏庭の中でも特に薔薇が植えられている一角だ。アーチやブロック、ベンチなどで整備された薔薇園では、夏薔薇が盛りを迎えている。
「見事ですね……」
ため息をつくような川端のつぶやきに、だろう、と横光は笑う。生前の様な道を外した愉しみはないが――元来、横光はそういった類いに、興味が薄かった部類だが。この裏庭の庭園は、作家たちの愉しみのひとつだ。
「ここはもう終わりが近いが、もう少しすればむこうの秋咲きが咲く」
言いながら、横光は薔薇の茂みに鋏を差し入れる。先ほどのルリマツリも良かったが、この八重咲きの白薔薇は、涼やかさの上に華やぎもある。大御所と呼ばれる作家も多い図書館では、このくらいの方が良いだろう。野草と違い、茎のしっかりしている薔薇は持ちが良い。
淡い、けれど華やかな白の花弁に、どこか友人の前髪を重ねながら、横光は手を止める。
「これだけあれば充分か……川端」
薔薇の木立から引き上げた横光の指先に、川端が触れた。
「川端、どうした」
「利一」
川端の咎めるような視線に、はて、と横光が手元を見ると、細かなかき傷が付いている。どうやら、枝を選んでいるうち、棘に擦っていたらしい。
「手甲があるから油断したな、たいしたものではないから……」
そのうち治る、と言おうとした横光を遮るように、川端の指が横光の手の上をすべった。血が落ちるほどではないが、横光の皮膚についた赤い筋の上を、川端の色白な指先が丁寧に辿る。
「川端」
「…………」
横光の呼びかけにも、川端は視線を手元に落としたままだ。川端の指先が傷を辿るたびに、微かな痛みと淡い悦楽が広がる。ぞくりと背中を走る感情に困惑しながらも、どうにか状況を変えようと横光は口を開いた。
「……ええと……貴方にも、なにか切ろうか」
「…………」
多少間抜けな文章になったが、どうやら川端の注意を戻すことには成功したらしい。横光の言葉に、川端は視線を上げた。しかし、上目遣いでこちらを見上げる彼の瞳は、どこか不機嫌で憮然としている。そこから読み取るに、横光の不注意に対する抗議だったようだ。
「つぎは気を付けるから」
この、一瞬見え隠れする執着も生前の影響か。しかし、友人の子供のようなそれに、それはそれで可愛いことだ、と内心微笑みながら、横光はほら、と川端を促す。
「では……」
横光の言葉に、ようやく指を離した川端は、夏薔薇を見渡して、そのうちのひとつを示した。川端が指定した薔薇は、赤みがかった紫が印象的な品種だ。
「わかった」
頷いて、横光は注意深く木立に鋏を入れる。七分咲きの一枝を切ると、ふわ、と果実のような香りが漂った。
「……ありがとうございます」
「いや」
木立の根元に付けられたネームプレートには、オルフェオとある。
赤紫の薔薇を手に、満足げに微笑む川端の口元を眺めながら、横光はぼんやりと、その名前の由来を思い起こす。
――亡くした者のため、冥府の底まで降りた男の名だ。
百日紅の木が夏風に煽られて、木漏れ日を揺らした。揺れ動く眩しい陽光に、横光は目を細める。風に乗った薔薇の香りが、横光の指先の傷をなぞるように纏わり付き、儚く消えていった。