月めくり:子守歌がなくても眠れるなんて
規則正しい秒針の音が、夜に沈んだ部屋の中に響く。
首筋に感じる、微かな寝息のくすぐったさに、思わず瞼をあけた川端は、シーツの中でちいさく微笑んだ。
川端が、この帝国図書館にやってきて数ヶ月。はじめのうちこそ、横光がこちらに来た川端を心配して、というていだったが、なんのかんのと二人して理由を付けるうち、今ではすっかり、二人一緒に床につくのが習慣になってしまった。
シーツの中からのぞく薄闇の中、家具の連格だけが、ぼんやりと見える。目を凝らした先の時計は、まだ深い宵の時間だ。時間を確認した川端は、やれやれ、と息を吐いた。
ずっと以前にも、こんなことがあった記憶がある。
――あれには、ずいぶんと困ったものでした、と川端は苦笑し、懐かしいと目を細めた。老境の独り寝に、あの感覚を思い出し、途方に暮れた夜を、川端は忘れてはいない。
後ろからは、相変わらず横光の平和な寝息が聞こえている。川端にとっては昔の話だが、それなりに早く逝った横光にとっては、きっとそれほどではないだろう。聞いてみたら、存外詳しい言い訳が聞けるかもしれない。
――もっとも、基本的に大らかな彼は、すっかり忘れているかもしれないが。
そこまで思って、川端はシーツで声をころして笑う。生前では身を切るようだった追憶も、ここでは笑い話のたぐいだ。
川端は、口元に笑みを浮かべたままそっと寝返りを打つ。先ほどとは反対側、寝台の中心を向くと、そこには当然、横光の寝顔があった。横光らしい、几帳面で規則正しい寝息が、彼の夜着の襟元を、かすかに揺らしている。
「変わらないですね、貴方は……」
思わず出てしまった声が届いたのか、ちいさく身じろぎした横光の瞼が、眠そうにひらいた。
「かわばた……」
「すみません……まだ寝ていて大丈夫ですよ……」
夢うつつ、といった表情の横光に、川端が声をかけると、わかった、と素直に頷いた彼は、再び眠りの底へと降りていく。
「…………」
もう一度横光の寝息が聞こえるのを確認し、川端は安堵の息を吐いた。眺める友人の寝顔は、川端が予想していたより、少し幼い。
見た目こそ、あつらえたように対になっている二人だが、その中身には、かなりの違いがある。老年、と言えるまで生きた記憶と、経験を持ってこちらにやってきた川端には、生前、実年齢がひとつ上だった横光や、年長の師匠だった菊池さえも、中身だけでいうなら、子供といって差し支えない。晩年の記憶が曖昧だという横光にいたっては、いっそ孫でも良いだろう。
帝国図書館で、川端の隣を歩く横光は、いまだ瑞々しい若者の感性をしているが、対する川端の、長い時間を生きてすり切れた魂では、かつての盟友と、同じ目線で世界を綴ることは出来なくなっている。どれだけ見た目を似せても、そこにある溝は埋められないのだ。
「けれど――」
けれど、と川端は横光の寝顔に視線を落として、ちいさく微笑んだ。たとえ埋められずとも、手を伸ばせば触れられる。その生きている証拠を、指先に感じることが出来る。生前を思えば、それはこのうえない程の僥倖だろう。
「…………」
川端はシーツから手を伸ばし、横光の前髪をすくい上げた。指先に感じる、横光の息づかい。揃いで使っている、洗髪料の甘い匂いが淡く香る。川端は、そのまま横光を起こさないよう、慎重に体重をかけた。触れるだけなので、音は出さない。夜着とシーツの、かすかな衣擦れ。深夜の静寂の中、響く秒針の音が、此処が自分の現実だと川端に教えている。
「よい夢を……」
もう一度、慎重に態勢を戻して、川端は目を細めた。幼い子供にする、他愛ないまじないだが、変なところで矜持が高い横光だ。彼が起きている時には、絶対出来ないだろう。
「……ん」
川端が、満足感と甘い多幸感に浸って息をついている間に、薄闇が視界の輪郭をぼやかしていく。どうやら、川端にも眠気の限界が来たらしい。隣を確認すると、横光はあいかわらず平和な寝息をたて、川端の首筋に、微かなこそばゆさを感じさせている。
――以前は眠れない原因だったものが、逆に安眠材料になるとは…………皮肉……いや、幸福なものですね。
そう思いながら、川端はちいさく苦笑いをこぼした。お休みなさい、そう心の中で囁いて、川端は素直に目を閉じる。
深い夜の一室に、二人分の穏やかな寝息と、規則正しい秒針の音だけが響いていた。