月めくり:ミルクに沈めたらそれでおしまい
グラスの中の氷が、小さな音をたてて位置を変える。
図書館にほど近いバーは、その立地と雰囲気の良さが有名で、文士達の出入りも多い。程良く照明を落とした店内では、今日もスロウなジャズピアノが流れていた。
「寛さん」
隣に座る谷崎の声に、菊池がカウンターテーブルに視線を落とすと、ミストで入れたウィスキーグラスに、滴が伝っている。
「おっと」
「頬が緩みっぱなしですよ」
くすくす、と谷崎が苦笑いをこぼす。菊池は、わざとらしく眉をしかめて笑いながら、濡れた指先でグラスを揺らした。
「これが緩まずにいられるか、ってもんだ」
そのまま中身を口に含むと、舌先に冷えたウィスキーの甘みが広がる。錬金術だ浸蝕だ、と世界の仕組みは変われども、酒の味に変化はないらしい。その味に満足して、菊池はいっそう口元に笑みを浮かべる。
「そうですね」
頷いた谷崎の指先が、彼の手元にあるカクテルグラスの、華奢な足をなぞった。そのカクテルグラスの向こう、奥のボックス席には、向かい合って座る白と紫の頭――川端と横光の姿がみえる。
生前可愛がっていた菊池の弟子の二人が、この程ようやく二人揃った。今日は、その再会の祝いと、こちらの世界への慣し――もとより、生前からあまり世に擦れていない弟子たちだった。を兼ねて、一門揃いで飲みに来ている。
遠目だが、弟子たちの方も、話が弾んでいる様子だ。こちらに来てから、あまり表情を出さない――もともと大人しい方面ではあった川端が、これまた帝国図書館では静かな方の横光と、楽しげに談笑している。川端のいない図書館で、虚空の微かな気配を追う横光と、本の中で、途方に暮れたような、迷子の瞳をしていた川端を覚えている菊池は、その光景に思わず目を細めた。
「連れてきたかいがあったな」
「あら、お父様は子供たちの社会見学にご満悦の様子」
「……まあな」
頷いた菊池は、グラスを傾けながら、谷崎に笑い返す。オレンジで淡く香り付けされたウィスキーは、値段の通り上物らしく、弟子と飲んだ後の二杯目でもうるさくない。
「――気になってたんだ。まだまだこれからだった横光も、面倒を見てやれなかった川端も……アンタには手間を掛けたかもしれんが」
「いえ……」
菊池の言葉に、谷崎は穏やかに微笑んで、言葉を返した。彼の持つ、美姫の名を冠したカクテルは、美しい青色に、果物と桂花の香りを纏っている。
「それに、早いうちこっちに慣れてもらわんとな」
問題児が居並ぶ図書館で、菊池の弟子二人は素行が良い。生前のように、仕事を任せられれば、菊池としても嬉しい限りだ。昔を思い出し、思わず菊池が独りごちると、谷崎が眉をしかめた。
「ワーカホリックですね、編集長」
「俺にはそこまでの才能はないからな。才ある有能な人材には、本領を発揮してもらわんと」
「あらあら」
「思うところも……なくはないが……」
言って菊池は、もういちどウィスキーのグラスを揺らす。
晴れてこちらにやってきた川端は、穏やかに、けれど強い意志を持って、横光に執心している様子だった。それは横光の方も同じくで、端から見れば、それは生前の盟友同士――それ以上の、もはや愛執に近い。
「それは、まあ悪くはないと思いますが」
こちらには、しがらみもないでしょう、という谷崎に、菊池は頷いて言葉を続ける。
「まあ、かもしれん。ただ……」
こちらにきた弟子二人の姿は、年齢も外見もほとんど差異がなかった。けれど、その中身――記憶と経験には、十年以上の開きが生じている。他の者が気付いているかはしれないが、菊池には、そこに確かな歪が見える気がしている――
そこまで話して、菊池は息をついた。穏やかな谷崎の視線が、無言で先を促す。
「あいつらには、せめてこっちで、満足のいく二世を送らせてやりたい……少なくとも、俺にはその責任がある」
親馬鹿かもしれんが、と笑いながら付け加えて、菊池は残りのウィスキーを一気に仰いだ。オレンジの混ざった芳醇な香りと、独特のアルコールの風味に、頭の中と視界が心地よく揺れる。煙草の匂いが漂う店内に、生前のいつか見た風景が重なって、菊池は自嘲気味にちいさく笑った。弟子のためといいながら、結局は己の罪悪感と心残りに、片を付けたいだけかもしれない。
「寛さん」
「酔ったかもな……まあ、酔っ払いの戯言だ」
言いつつも、チェイサーに手を付けるのは惜しい気がして、菊池は空のグラスの縁をなぞった。その様子をしばらく見つめた谷崎は、カウンターの向こうに、何事か声を掛けている。
「谷崎」
怪訝な顔をしていると、少ししてタンブラーグラスが、菊池の前にサーブされた。カウンターに置かれたグラスの中身は、不透明で柔らかな白だ。名前の分からないカクテルに頭をひねっていると、隣の谷崎が柔らかに微笑んだ。
「ミルクです」
みれば、弟子たちのテーブルにも、同じグラスが届けられている。
「過去を振り返り追憶を助ける薬も、過ぎれば毒ですよ」
「――名文だ」
「安い三文芝居の台詞ですよ」
「こりゃ本格的に酔ったな……」
「あら、それは大変」
くすくす、と笑う声とともに、谷崎のカクテルグラスが、菊池のタンブラーグラスに、軽い、乾杯《キス》をした。口に入れたミルクは、悔恨とアルコールで焼ける菊池の内に、静かに満ちていく。思わず深い息を付いたところで、谷崎がやんわりとした声を出した。
「――今日はこれくらいにしておきましょうか」
彼は空いたシャンパングラスを置きながら、苦笑い混じりに後ろを振り返る。
「子猫たちは、そろそろおねむのようですし……さすがにあの大きさの猫は、懐に入りませんからね」
はた、と菊池が谷崎の視線を辿ると、川端はこっくりと船を漕ぎ、横光はどこか据わった目で微笑んでいた。どうやら、菊池以上に酔っているらしいのが、遠目にもわかる。
「あ、あいつら」
菊池は残りのミルクを飲み干して、慌てて席を立った。可愛い弟子の面倒ごとは厭わねど、こういう類いの面倒ごとは勘弁である。
菊池は谷崎の手を借り、小言を言いながら、弟子たちを立ち上がらせ会計を済ませる。電話で呼んだタクシーに弟子たちを詰め込み、谷崎に礼を言いながら、自分は助手席のドアに滑り込んだ。
「そう、帝国図書館まで……よろしく頼む」
タクシーの運転手に目的地を告げると、車は滑らかに動き出しす。
車の揺れと、後部座席からの寝息を聞きながら、菊池は弟子たちのテーブルに残った、ほとんど口を付けていないミルクを思い出す。はたして、彼らの心残りと悔恨、菊池にも知れない歪な何かは、少しでも減っただろうか。
――いっそグラスに沈めて、飲み干してしまうくらいの図太さがあれば良いのだが。
「無理な相談だろうなぁ……」
世の仕組みは変われども、人間の本質はそうそう変わらない。師匠に出来ない事を、輪を掛けて繊細な弟子たちに要求出来るはずもなし――菊池は苦笑いしながら独りごち、車窓の風景に目をやった。夜の街は、まだこれからが本番とみえ、街灯とネオンの明かりで華やかだ。
道路照明で、不規則に照らされる弟子たちの寝顔を、バックミラー越しに眺めて、菊池はちいさくため息をついた。