月めくり:掌に祈りがわだかまる
司書室から廊下へ続く扉を開けた横光は、暗かった室内との照度差に思わず足を止め、ちいさく瞬きをした。
「利一……どうかしましたか」
「ああ」
声を掛けてくる、後ろに続く川端に、なんでもない、と笑いかけながら、横光は赤い絨毯の敷かれた廊下に出る。
秋口の空は快晴で、中庭に面した廊下は、広くとった窓から差し込む、穏やかな光で照らされていた。中途半端な時間とあって、廊下には二人以外に人の気配はない。
「川端、今日は助かった。 ありがとう」
司書室の扉が閉まったのを確認して、横光は川端に向き直り口をひらいた。
「大げさですよ……」
礼を言われた川端は、微かに苦笑いを浮かべる。その川端の言葉に、いや、と横光は笑いながら首を振った。
「川端がいなければ、手前は今、此処に立っていられたかも怪しい」
先刻、横光たちが潜書した本にいた浸蝕者は、話に聞いていた通り、なかなかに手強い相手だった。本来の居場所がなかなか掴めず、しかも搦め手を使う。勢いあまって深追いした横光の襟首を、川端がタイミングよく引き戻さなければ、浄化どころか、帰還さえ危うかっただろう。二人が先ほどまで司書室にいたのも、この一件の報告のためだ。
「ちょうどタイミングが良かっただけです……」
それより、と川端は横光を見つめて、眦を上げた。
「今日は焦りました……」
「手間をかけさせてすまなかった」
寿命が縮みました、と眉間に皺を寄せて詰め寄る川端に、横光は半歩後退りしつつ、素直に頭を下げた。慣れているとはいっても、こんな時の川端の眼力には迫力がある。加えて、今日の不手際の責任は、完全に横光のものなので、言い訳はできない。
とりあえず、なんとか友人の機嫌を直さねば、と横光は思案しながら口をひらく。
「ええと……そうだな、ああ、謝罪と謝礼の代わりに、川端の要望をひとつきこう」
「…………」
どうだ、と呼びかけるが、川端からの返答はない。おや、と横光が顔を上げると、川端は眉間に皺を寄せて、何やら考え込んでいる。
その横顔を眺めながら、横光はひそかに苦笑いをこぼした。この友人も、だいぶこちらに馴染んできたらしい。
こちらに来たばかりの頃には乏しかった表情も、喜怒哀楽が察せられるようになった。横光以外と会話している時間も、そこそこに増えている。最近では、突っかかってくる若手作家をいなしながら年長の先達を立て、己を慕う後輩たちにさりげなく範を示すなど、立振舞いにそつがない。菊池も舌を巻くその立ち回りは、既に場数を重ねた大御所のそれだ。司書や菊池などは、その変化を歓迎しているようだが――しかし横光は、そんな川端を見かけるたび、見知った友人がどこか別人になっていくようで、ひどく複雑な気分だった。
――これも、己の器の小ささ故か。
胸の内に燻る、不安と寂寥を押し込め、横光はそれらを振り切るように、ちいさく首を振る。今は内省に耽っている時間ではない。同時に、利一、と川端が横光を呼ぶ声がした。
目線を戻すと、いつになく真剣な面持ちの川端が、こちらを見つめている。
「利一、今の提案の件……内容の方はもう少し、考えさせて頂いても」
「あ、ああ、もちろんだ」
どうやら、要望の内容を熟考しているらしい。川端の表情は、骨董屋で掘り出し物を吟味するときのような真剣さだ。思わず吹き出しそうになった横光は、慌てて空を見上げる。窓越しに映る秋空は抜けるような青で、横光の内心とは裏腹に、一片の曇りもない。
しばらくそうしていると、不意に、する、と川端の右の指先が、横光の小指を滑らかに掬った。気付いた横光は、すこし微笑んで、されるままに指先の力を抜く。そのまま、横光と川端、二人の目線と指先が、柔らかに絡まる。
生前、互いの作品を読み合った時のように、離れた土地で手紙のやりとりをしたように、その呼吸の合わせ方は昔と変わらない。
「……利一」
「……」
こちらを見つめる川端の意図を察して、横光はいつものとおり素直に瞼を下ろす。
「…………」
「ん……」
羽織の衣擦れとともに、川端の薄い唇が、横光の口元に触れた。一拍の間をおいて、差し入れられた川端の舌に、横光も自身の舌先を絡める。
恋情から、というより、生前の繋がりを確認しあうように交わされるようになった情交が、横光の胸中にわだかまる、微かな不安を溶かしていく。
「――利一……素直なのは貴方の美点ですが、迂闊なことを言うのは感心しません……」
繋がった舌と唇が離れると同時に、狼に食べられてしまいますよ、という川端の苦笑い混じりの声が、横光の耳に届いた。瞼を上げると、川端が子供のような顔で微笑んでいる。くつくつと笑うその瞳に、昔と変わらない青年の茶目っ気を認めて、横光は川端に悟られないよう、ちいさく安堵の息を吐いた。
そう、ここにいるのは、見知らぬ老作家ではなく、懐かしい日々を、同世代として共に歩んだ親愛なる盟友だ。それに横光とて、無為に図書館で時間を潰していたわけではない。多少の経験の差は、いずれ必ず埋まるだろう。
――どうかこの先も、愛しい友人の手を取って歩いていけるよう。
重ねた掌の温もりに、ささやかな誓いと祈りを託しながら微笑んで、しかし、それはそれとして、と横光は川端の言葉に異議を唱える。
「川端、既に手前は食べられているのだが……」
「おや、それは失礼しました……ではもうひと口だけ」
「――川端」
慣れた言葉の応酬に、どちらからともなく無邪気な笑いがこぼれる。換気のために空けているのであろう窓から、晴れやかな秋の風が吹き込んでいた。
※※※
――実際、今日は焦ったのだ。
横光の唇に己のそれを重ねながら、川端は内心で盛大に息を吐いた。
無意識なのか、意識してかは分からないが、どうも最近の横光は、何かと前に出たがる傾向がある。生前、何かと川端の世話を焼いてくれた彼なので、おそらくその延長なのだろうが、たとえ本の中とはいえ、戦場で独断独走されては川端の心臓が持たない。
――まあ、このやんちゃ加減も可愛らしいところなのですが。
そう胸の内で呟きながら、川端はかるく開いた横光の唇の隙間に、自身の舌を差し入れた。繋ぐ掌と、絡める舌先の熱に、胸の内に燻る独占欲が満たされていく。その充足感に目を細めながら、川端は重ねていた唇を離した。
「――利一……素直なのは貴方の美点ですが、迂闊なことを言うのは感心しません……」
戦場でのスタンドプレイも厄介だが、この無自覚な寛容さも心配の種だ。さりげなく苦言を呈する川端に、しかし横光は異議を唱える。
「川端、既に手前は食べられているのだが……」
その素直で気の抜ける横光の言葉に、そういうところですよ、と思わず内心でため息をつきながら、川端は苦笑いを返した。
この生真面目で実直な友人は、はじめの晩――川端が横光を組み敷いたときも、そうか、とあっさり頷いて、素直にそれを受け入れたのだ。以来、生前互いの原稿を読み交わし、手紙をやりとりするのと同じように、唇を重ね肌を合わせている。どうやら彼はこの情交に、恋情とはまた別の意味を見いだしているらしい。
その解釈は、長い時間の果てに、思慕と恋情、愛執が混ざり合い、不可分になってしまった川端には叶わないことだ。もっとも、それは最初から恋情に近いもので、時間を経ることで友愛というメッキが剥がれ、露呈しただけなのかもしれないが――
横光に対する、微かな羨望と寂しさを押し隠し、川端は笑いながら、冗談めかして口をひらく。
「おや、それは失礼しました……ではもうひと口だけ」
「――川端」
慣れた言葉の応酬に、どちらからともなく笑いがもれた。
それは、懐かしい日々を共に歩んだ盟友としてのものだ。おそらく横光は、川端の抱える妄執になど、気付いていないのだろう。
穏やかに口元に笑みを浮かべる川端の胸の中で、ざらりとした不安が鎌首をもたげる。いつか横光が、二人の間に横たわる埋めようのない空白と、川端の抱える拗らせた愛執に気付いてしまうときがくるのだろうか。
――どうかこの先も、愛しい友人がこの欺瞞に気付くことがないよう。
重ねた掌の温もりに、痛切な願いを込めて、川端は祈るように空を見上げた。窓越しの抜けるような空は、川端の内心とは裏腹に、一片の曇りもない。ただし――
「……ピアノ、ですか」
見た目には違和感がないが、どこか遠くから、かすかな旋律が耳に届いた。思わずつぶやいた川端に、横光が笑って頷く。
「近所の子供だろうな……春先頃から、ときどき聞こえていた」
「可愛らしい曲ですね……」
「ああ」
横光の言葉どおり、子供が弾いているのだろう。時折つっかえるところも含めて、無邪気で愛らしい練習曲だ。その拙いパッセージは、川端をはじめ帝国図書館の文士達が抱えているであろう生前の業を、慰撫するように館内に響く。
「――この後はどうする」
「……そうですね……では裏庭に……秋薔薇がそろそろでしょう」
予定は控えていないので、談話室でくつろいでも良いのだが、せっかく良い雰囲気になった二人の時間を、もう少し堪能していたい。
下心混じりの川端の返答に、横光は嬉しげに目を輝かせ、行こう、と繋いだ手を引いた。その無邪気な笑顔に、耳に届くあどけない旋律が重なって、川端は思わず苦笑いをこぼす。幸か不幸か、この生真面目でまっとうな盟友が、川端の募らせた愛執に気付くのは、しばらく先のことになるだろう。安堵半分、呆れ半分でため息をつきながら、川端は横光に手を引かれるまま足を進めた。
秋口の光に照らされた図書館の明るい廊下を、色違いの首巻きを付けた二人の青年が、穏やかに笑いあいながら通り抜けていく。睦まじく重ねて繋いだ指先は、結んだ花弁のように重なって、それ故にその掌に隠された各々の思惑を曝け出すことを許さない。
廊下に微かに届く、無邪気で愛らしいピアノの旋律が、二人の影を追うように響いて消えた。