月めくり:失したと思っていた心臓
戻りました、とちいさく声をかけたが、細く開いた扉の向こうから返答はなかった。
水差しを抱えた夜着の川端は、扉の前でしばし首をかしげてから、開いた扉の間に体を滑り込ませる。そのまま後ろ手で扉を閉め、音を立てぬよう慎重な足取りで、寝台に歩み寄った。
日付を越えた深夜の時間帯だが、カーテンの隙間から差し込む淡い月明かりで、部屋の中はうっすらと明るい。
近づいて覗き込んだ寝台の上では、素肌にシーツを巻き付けただけの横光が、安らかな寝息を立てていた。川端が部屋から出て行くときには、気怠げな生返事をしていたが、川端が水差しを用意して戻ってくる間に、眠ってしまったらしい。
「遅くなってしまいましたか……」
すみません、と眠っている横光に小声で詫びてから、川端は水差しをベッドサイドへ置いた。皺の寄った、情事の跡が残るシーツを軽く整えて、寝台の上に腰掛ける。互いの喉を潤してから、甘い会話を楽しむ予定だったが、時にはこんな余韻の夜も悪くない。
水を注いだグラスを傾け、川端は寝台を占領している友人を見下ろした。寝台の上の横光は、川端が部屋を出るときに腰元にかけてやったシーツをそのままに、安らかな寝息をたてている。うつ伏せで寝ているので、白い背中が無防備なほど露わだ。
「……風邪を引かせると、後々うるさいですからね」
部屋の空調は入っているが、それでも裸で寝かせておいていい季節ではない。
何かかけるものを、と視線を動かしたところで、川端はふと目をとめた。寝ている横光の、首筋から肩甲骨。細身ながら、ほどよく筋肉が付いたその滑らかなラインに沿って、鬱血痕が散らばっている。勿論それを付けたのは川端自身だ。いつもならば加減をするのだが、昨夜はつい愛しすぎてしまったらしい。申し訳なさ半分、満足感半分で苦笑しながら、寝台の隅で丸まっていた上掛けを引き寄せて、横光の肩口まで引き上げてやる。
枕の端に乗る寝顔は、これが本当に最中の艶めかしい声の持ち主と同一かと、疑わしくなるほどにあどけない。風邪を引かないようにと、上掛けの位置を調整する川端の気分は、もはや子供の寝顔を見守る父親か、祖父のそれだ。
脳裏に浮かぶイメージに、やはり最中に、横光と視線を向け合うようなことをしなくて良かった、と川端は安堵の息を漏らした。
面と向かって示し合わせたわけではないが、二人が肌を合わせる夜は、互いの視線を合わせない。体格や体勢的な都合もあるが、やはり気恥ずかしさが先に立つのだ。さらに川端には、もうひとつの理由があった。もしも視線を合わせてしまったら、川端が横光に向けて持っている、友愛に粉飾した愛欲や、密やかな優越感が、見透かされてしまうのでは――という懸念だ。平時には上手くごまかせても、寝台の上で理性を飛ばした状態では、どうなってしまうか分からない。嬌声をあげる友人の顔は何度となく思い描いてきたが、その瞳に映るであろう己の顔を、直視する覚悟は持てなかった。
――我が事ながら、業が深い。
自嘲を込めて苦笑する。そして、もう一度グラスを手に取ろうと腕を伸ばし――微かな痛みを感じて、川端は手を止めた。先ほどまで気付かなかったが、自身の手の甲や前腕に、浅い噛み痕が付いている。行為の最中、横光がつけたものだろう。その甘い痛みに、知らず川端の気分が高揚する。たとえ、川端と横光の胸の内が重ならずとも、この跡が一夜の快楽を共有した証だ。これは当分のあいだ手甲をはずせませんね――思わずそう独りごちて、川端はちいさく笑みをこぼした。
冬に片足を入れた季節の深夜は、起きているものも少ないとみえ、物音ひとつしない。
子供のように眠る友人の寝顔を眺め、けれど、その友人が手首につけた淫靡な印を撫でながら、川端はゆるく目を細めた。
『紆余曲折あって、ようやく再会を果たした盟友』図書館内での二人は、距離の近すぎる友人と認識されているようだった。しかし、ここまでの関係は誰も気づいていないだろう。もっとも、師匠や察しの良い谷崎あたりは、気づいていても敢えて口を出さないだけかもしれないが――
そこまで考え、川端は今度こそグラスの水を飲み込んだ。
冷えた水が喉を通りすぎるうち、ふと、ひとつの考えが川端の頭に浮かぶ。
――どうせ見ることができないのなら、書いてしまえば良いではないか。
「…………」
ごく短い逡巡の後、川端は腰を上げ、ライティングテーブルに向かった。途中、いちど振り返った寝台では、あいかわらず横光が子供の寝顔を晒している。
卓上の灯りをつけるのは躊躇したが、窓際のそこは月明かりで充分明るかった。川端は引き出しを探って、適当な用紙を引っ張り出し、卓上に転がっていたペンを手に取る。
友人としての敬愛を、己に一身に向けてくる、孫ほど歳の離れた若者を抱く背徳と喜び、そして願望。よく似た主題は書いたことがあるが、おそらく今ならばもっと技巧を凝らし、生々しく真に迫った文が書けるのではないだろうか――思いを巡らせるうち、川端の物書きとしての野心が、じりじりと温度を上げていく。
簡単にまとめた概略、冒頭、主題、一行綴るごと、指先に夜半の熱が戻ってくるのがわかる。川端の薄い夜着の背中を、寝台で友人を抱く時と同じ、ぞくりとした興奮と悦楽が走り抜けていく。友人である若者への、思慕と愛執が入り交じる浅ましい現実に、希望と願望の入り交じる虚構。
生活費を得るためでも、文壇の地位や権威を守るためでもない――此処では実現することはないだろうが、友人と腕を競い、顔もわからない読者にこの苦悩と悦楽の一端を伝える、己のための一編。それは横光や多くの者と死に別れて、いつの間にかなくしてしまった、作家川端康成の命題そのものだ。
「……ここに……あったのですね……」
拍動と共に痛む、熱を持った手首の噛み跡に、川端は口もとを綻ばせた。同時に、微かに震える声をもらす。
月明かりの照らすその寝室には、東の空が白みはじめるまで、安らかな寝息とペン先が滑る音だけが響いていた。