月めくり:朝焼けに指がさみしくなる
閉じた瞼の奥に光を感じて、横光は眉間に皺を寄せた。
夢うつつを彷徨っていた意識が浮上する。身体に残る、かすかな疲労感と、それを上回る充足感に内心で苦笑しつつ、横光は素直に瞼を上げた。
朝、というにはまだ早く、しかし夜明けからは些か時間がたった頃合いだろう。開いたカーテンの隙間から、ごく淡い光の帯が差し込んでいる。
「……ん」
その様子を眺めながら、横光は寝台から身を起こし、かるく伸びをした。上掛けが背から滑り落ち、何も着ていなかった素肌に、朝の涼やかな空気が触れる。
横光の目覚めたそこは、川端の私室にある寝台の上だ。
辺りを見回し、状況を確認しながら、横光はもういちど眉を寄せ、苦笑いをこぼした。
帝国図書館で再会して以来、川端と横光はたびたび情事を重ねている。昨夜は、夕食後に談話室で供された地酒が思いの外美味しく、川端ともども気分良く寝台へなだれ込んでしまったのだ。師匠が知ったら、さぞ呆れた顔をするだろう。もしくは、手でも叩いて盛大に笑うだろうか。――もっとも、師匠や周囲には、ここまでの関係は知られていないので、無用な心配だろうが。
答えのない事を考えながら、横光は首を回して、うつぶせ寝で凝ってしまった首筋を伸ばした。情事の後の満足感は言うまでもないが、若者の身体とはいえ、通常業務を終えた後のそれによる疲労感からは、逃れられない。
はじめて川端に押し倒されたときには、多少驚きもしたが、横光は否を言うことはしなかった。その情交は横光にとって、生前の繋がりを確認するひとつの手段でもあったからだ。
背中を撫でる指先と少し不器用な気遣い、耳元で交わすやりとり。生前と変わらないそれらを、寝台の上で感じるたびに、横光は内心で安堵する。此処にいるのは、図書館の資料で見た、老作家川端康成ではないのだから、と。それでも、行為の最中に、川端と顔を合わせられないのは、気恥ずかしさは勿論のこと、自分のその安心感が破られることを恐れているからだ。
「臆病者だな、手前は……」
こんな些細なことで安心を得ようとすることも、盟友とまで言われた友人を、心から信用できないことも――
横光は、呟きとともに深い息をついて、ちいさく首を振った。
そうこうしているうち、朝の早い者が起き出してくる時間になったらしい。窓の外から、かすかな声や物音が聞こえてきた。植物の世話や、朝の運動に精を出す者達だろう。
その物音を聞きながら、横光が何気なく視線を下ろすと、川端が寝台の端で、上掛けを掛けずに丸まっていた。昨夜の記憶を辿ると、川端が部屋を出て行ったあたりで、横光の記憶が途切れている。おそらく川端が戻ってくる前に、自分は眠ってしまったのだろう。
「……すまんな」
ベッドサイドに置かれた水差しに目をとめながら、横光はちいさく川端に詫びた。川端の方は、よく寝入っているらしく、口元に微かな笑みを浮かべて、安らかな寝息をたてている。横光は、川端の寝姿に目を細めながら、寝台の上に座り直した。体勢を換えるたび、腰に甘い鈍痛が走るが、それは昨晩の悦楽に対する対価なので、自業自得だ。
――どうにも、昨晩は随分羽目を外していたらしい。
横光はちいさく笑いながら、眠っている川端の頭を撫でる。柔らかい白練の髪が、撫でる横光の掌に合わせて揺れた。こちらに来て、お互いの見た目は随分変わったが、彼のこの柔らかい髪だけは変わっていない。
穏やかな気分で友人の銀糸を撫でながら、ふと、その手首に赤い跡を見つけ、横光は手を止めた。川端の手首の内側にあったのは、薄い噛み跡だ。位置と色合いを見るに、昨晩横光が付けたものだろう。いつもは気を付けているのだが、昨晩はつい、友人に甘えてしまったようだ。申し訳ないと思うと同時に、横光の首の後ろがちり、と痛む。なるほど、興が乗っていたのはお互い様、ということだろう。
「まあ、あいこだな……今日のところは」
首筋と腰の甘い痛みは、一夜の快楽と密やかな情事を共有した証だ。横光は苦笑しながら、もういちど川端の頭を撫でた。
窓の外では、起き出した小鳥の囀りが聞こえてくる。
その無邪気な声を背景に、しばらく友人の寝顔を堪能した横光は、さて、と腰を上げた。少しばかり早いが、そろそろ世間様の起き出す時間帯だろう。先ほどと変わらず、安らかな寝息をたてている川端に上掛けを被せ、寝台の脇においていた、いつもの着物に袖を通す。ついでに、新しい水を用意しようと、ベッドサイドの水差しに腕を伸ばし――そこで横光は手を止めた。
昨晩はきちんと閉まっていたはずのカーテンが、窓際にあるライティングテーブルの前だけ開いている。横光が首をかしげながら近づくと、卓上には何枚かの紙束があった。
「……原稿」
それは、文士達が居並ぶ帝国図書館にあっては、なんの違和感もない、安い原稿用紙だ。ただし、横光はこちらに来た川端が、執筆しているのを見たことがない。横光の目を引いたのは、そのせいだろう。
状況からして、昨晩書いたのだろうその紙束に、ようやく書く気になったのかと、思わず横光の口元が緩んだ。歓びと好奇心に駆られて、横光は原稿用紙を手に取り、書かれている文字を追った――
いつの間にか起き出す者も増えたのだろう、部屋に差し込む陽の光は明るさを増し、扉の向こうから微かに聞こえるざわめきも、先ほどより賑やかになっている。
そのざわめきに、読んでいた文字列から目を離して、横光は深く重い息を吐いた。
それは美しい文章だった。川端らしい穏やかな文体にのって展開される、繊細な物語と描写。図書館で川端を待つあいだ、横光は自分が世にいなくなった後に、川端が書いた作品にも目を通している。発行年数を重ねるにつれ、年々洗練されていく友人の書籍を、横光は愛おしく読みすすめたものだ。しかし、いま横光の手元にある原稿は、それ以上に練り上げられている。
窓の外で飛び立つ小鳥の影が、陽の光に照らされたライティングテーブルの上を横切っていく。その影を目で追った横光は、ちいさく苦笑いをこぼし、静かに瞑目した。
自分と同じ時代に、同じく文字に生き様を求めた盟友。だからこそ、横光は理解してしまう。自分の知っている盟友は、此処にはいない。作家、川端康成は、もはや自分と同世代の人間ではない。その隣に、同じ世代の作家として、自分が彼の隣に、均しく並び立つことは、きっと叶わない――
どこか冷静に自覚する横光の胸中で、諦観と寂しさ、羨望と嫉妬が混じり合う。
ふいに、背後から衣擦れの音がして、横光は思わず肩を揺らした。寝台の上の友人が目を覚ましたのだろう。澱のような気分を引きずり、横光は瞼を上げた。目の前では、穏やかな朝の光が差し込んで、空中を舞う微かな塵が、光の帯の中で踊っている。
後ろから、利一、と川端の呼ぶ声がする。けれど横光は振り向けなかった。振り向いたその寝台にいるのが誰なのか、自分は彼にどうあるべきなのか、横光には、もう分からない。混乱した頭で、光の中の塵を目で追っていると、もういちど、利一、と眠そうな声が耳に届く。
近づく足音に急かされるように、横光はぎこちなく口角を上げ、おはよう、と微笑んだ――