月めくり:さわれない聲の手触り
かしゃん、というグラスの倒れる派手な音が、食堂に響いた。
外は冬の木枯らしが吹いているが、硝子窓のこちら側は暖かい。昼時の食堂に集まった各々が、陽だまりで暖をとろうとしていて、窓際の席は賑わっていた。その一同が、音のした方に目を向ける。
もとより、癖の強い文士達が集まる図書館である。羽目を外した文士のやらかしや、気安さからの小競り合いは日常茶飯事だ。それでも、食堂内のざわめきが一瞬おさまり、一同の視線が集まったのは、音の原因がやらかしや小競り合いとは縁遠い、比較的素行の良いはずの新感覚派の二人だったからだ。
「すまない、つい」
「いえ……」
周囲からの視線に、居心地の悪さを感じながら、横光は水浸しになったテーブルを、台拭きで拭った。慌てて起こしたふたつのグラスは、八分目まで入れてあった水が、ほとんど溢れて空になっている。
注意深い者や、二人に近い者なら、食堂に来た時点での二人の距離が、微妙に離れていたことや、川端の差しだした手を、横光が振り払ったことに気付いただろう。その勢いで、卓上のグラスが倒れ、この有様だ。己の失態に深いため息をつきながら、横光は水を含んだ台拭きを畳んだ。
「利一、袖が……」
追加の台拭きを、と顔を上げたところで、同じく向かいでテーブルを拭いていた川端が、横光に声をかけた。
「む……」
川端の言葉に従って視線を落とすと、横光の羽織の袖と着物の膝下は、こぼれた水で濡れてしまっている。
「先に着替えを」
「しかし……」
見返す卓上は、まだ所々水溜まりができている。横光が躊躇していると、ちいさく微笑みながら、川端は言葉を重ねた。
「そのままでは冷えます……あとは、私がやっておくので……」
「――わかった。すまないが、よろしく頼む」
自室に戻った横光は、付けていた手甲を外し、丈の短い羽織を脱いだ。軽く袖口を絞った羽織を、衣紋掛けに引っ掛け、光の入る窓際に吊す。さいわい、ひどく濡れたのは羽織の袖だけだったようで、他はタオルなどで拭けばすぐに乾く程度だ。
横光は安堵のため息をつきながら、そっと着物の懐を探った。そこから四つ折りの紙片を引っ張り出す。
「――こっちに入れておいて助かったな」
懐にしまっていたのは、数日前に川端が書いていた原稿の一枚だ。あの朝、川端の呼びかけに狼狽した横光は、手にしていた原稿用紙の一枚を、咄嗟に懐に入れてしまった。
「早く、返さなければ……」
そう日課のように独りごちるものの、いまだに原稿用紙は横光の手元にある。不可抗力とはいえ、友人の作品を勝手に読んだ上、原稿を持ち逃げしている状態だ。後ろめたさと切り出しにくさで、どうしても川端への態度がぎこちなくなる。そして、その結果が、先ほどの食堂での失態だ。
「…………」
それに加えて、と横光は改めて広げた原稿用紙に目を落とした。
筆跡自体はよく知る友人の癖が出ているものだったが、落ち着いて何度か目を通すと、自分の知る文字とは少し変化しているのが分かる。そこに、己が持ち得なかった時間への羨望と、友人を独り残してきた負い目を感じ、横光は目を伏せた。
老境の作家が、年若い若者に向ける愛執。そこに何が重ねられているか、横光に察せられないわけがない。原稿用紙に綴られた、音のない川端の聲が、いつかの夏薔薇のように、甘く柔らかな手触りで横光の指に絡みつく。
「すまない、手前は……」
素直に応えられない自分に、後ろめたさとかすかな安堵を混ぜながら、横光は深く息をついた。
ひとり食堂に残された川端は、もとの席へ腰をかけ、手持ち無沙汰に卓上を眺める。
グラスは片付けたが、昼食は終えているので、横光を待つ間なにか口に入れる気にはなれない。加えて、先ほどの件は周囲の興味をそそったらしく、それとなくこちらを窺う視線の気配と、緊張感が食堂全体に漂っている。
「…………」
どうしたものか、と川端がため息をついたところで、水の入った新しいグラスがふたつ、テーブルに置かれた。
「先生……」
顔を上げると、師匠である菊池が苦笑交じりに、こちらを覗き込んでいる。彼は、どうした、と言いながら、先ほどまで横光の座っていた、川端の向かいにある椅子に腰掛けた。
「何か揉めたか」
「……いいえ、何も」
師匠の問いに、川端はちいさく首を振る。そう、表面上は何も起こっていない。ただ、川端の書いた原稿用紙が、一枚だけ見当たらない、それだけだ――
川端の返答に、それなら良いんだが、と菊池は微かに困ったような顔をして笑った。
「横光はどうした」
「羽織を替えに……少し、濡れたようでしたので……」
川端が口を開いている途中で、窓際の席がざわついた。視線を向けると、どうやら窓の外で、風花が舞いだしたらしい。こちらに向けられていた視線は、一斉に窓の外に集まり、先ほどまでの緊張感も、どこか浮き足立つそれに変わる。
「ここは娯楽も少ないから、ちょっとしたことで大騒ぎだな」
窓際に集まる一団を眺めながら、くつくつと菊池は笑う。師匠につられて、頷いた川端が微笑むと、グローブを付けた手が川端の額を、柔らかく小突いた。気にするな、という師匠からの言外のフォローを受け取って、川端は素直に頭を下げる。
「ありがとうございます……今夜は、冷えそうですね……」
「ああ、厚着しとけ、厚着。横光にも言っといてくれ」
「はい……」
頷く川端と菊池の脇を、童話作家と詩人、俳人たちが、楽しげに駆け抜けてゆく。早速庭に出て、なにか書こうというのだろう。その様子を、穏やかな目で追いながら、そうだ、と菊池が口をひらいた。
「書いてるか、文章」
「……」
なんと答えるべきか、川端が迷っていると、菊池はちいさく笑いながら、グラスを揺らした。
「横光が読ませてくれないんだよ、お前さんと一緒に提出するから、って」
「利一が……」
思わずこぼした川端の呟きに、菊池は苦笑いを返す。
「ああ、春先からな、ずいぶん楽しそうに書いてたが――」
「…………」
師匠の言葉を耳に入れながら、川端は目を伏せた。此処にいない彼は、いま何を思っているのだろうか――
「……先生」
ん、とこちらを見上げる師匠に、横光はかすかに微笑む。
「すこし、様子を見てきます……」
行ってこい、と笑って手を振る師匠に、ちいさく目礼を返して、川端は静かに席を立った。
食堂を後にした川端は、横光の部屋の扉を叩く。
昼時を過ぎ、人影のない居住区画の廊下に、ノックの音が響く。しかし、部屋の中からの返事はない。
「……利一」
ちいさく声をかけながら、川端は真鍮製のドアノブを回した。戦前の頃の記憶が多いからか、本人が大らかなためか、友人は日頃から部屋の施錠に頓着がない。扉を開けた川端は、そっと部屋の中を窺った。
部屋の中は、人の気配や物音もなく静かだった。椅子の背には湿った手甲が掛けられ、窓際には横光が着ていた、白い羽織が掛けられている。おそらく、入れ違いになったのだろう。友人らしい、整った部屋をしばらく眺めてから、川端はため息をついた。
川端の書いた原稿用紙の一枚が見当たらないのは、横光が持っているとみて、間違いない。おそらく彼は、自分の書いた原稿を読んでいる。何か行動を起こすべきか――しかし先ほどの件や、ここ数日の微妙な距離感を踏まえると、こちらから下手に動くのは悪手だろう。
川端は眉間に皺を寄せ、考えを巡らす。見るとはなしに友人の書き物机に目をやると、ふと、書棚に挟み込まれた、原稿用紙の端が目に入った。
「……原稿」
近づいて引き出してみると、それはやはり横光の書いた原稿のようだった。数枚ある原稿用紙は、それぞれ別の話のようで、所謂掌編であるらしい。
「…………」
川端は、書き物机に広げた原稿用紙の上に指を置いて、よく知った友人の文字をなぞった。横光らしい、大らかで実直な筆跡と、試行錯誤の様子が残る推敲の痕跡。そして、彼の特徴だった、明度のある主題たち。そこに、技巧を重ねる己のそれとは違う、横光の若さと、それ故の時間の隔たり、そして稚い微笑ましさを感じて、川端はおもわず溢れる苦笑いに、肩を揺らして天を仰いだ。
愛すべき友人は、原稿用紙一枚にさえ動揺を隠せない幼さだ。もしも、その時が来たとして、横光を籠絡するのは、むずがる子供をあやすより容易いだろう。
生前、川端の掴んでいた彼の手は、あっけないほど簡単に離れてしまった。
「……次は、逃がしません」
原稿用紙に綴られた文字は、老作家の薄暗い妄執を拒むように、清廉な硬度を保っている。それは、いつかの中庭で目にした夏薔薇の棘だ。その痛みを指先に感じながら、川端は淡く微笑んだ。