月めくり:あなたはまぶたを閉じていればいい
潜書の依頼として川端と横光に指名が来たのは、年の瀬も押し迫った寒い日のことだった。
指名理由は、先頃ふたりが倒した侵蝕者と同じ動きが観測された、という事らしい。
「……私は構いませんが」
呼び出された館長室で、ソファに腰を沈めながら、川端は口をひらいた。横光の方は、館内で雑用をしているらしく、まだ到着していない。
「しかし……情報と動きを参考にするだけなら、前回の潜書者が一人と他の適任者でも充分でしょう」
師走のこの時期、この帝国図書館も世間の例に漏れず、ばたばたとしていた。元々の性分であったり、人当たりの良い文士などは、この手伝いとして館内を駆け回っている。どうやら、横光もそんな中の一人らしい。
「人手の都合もあるでしょうし……」
横光の都合が付かないならば、別の人選でも構わない、と川端は申し出た。もっともらしい事を言ったが、本当のところは、川端と横光との関係が、いまだにぎこちないままだから、というのが本当の理由である。頼まれごとを安易に断れない友人には、思い悩む相手と、逃げ場のない仕事場で二人きりになるのは酷だろう。
川端の本心を隠した提案に、けれど向かいに座った館長は、納得した表情で、そうか、と頷いて腕を組む。その場にいた猫も交えて、何名かの適任者を挙げていくうち、几帳面な音で、館長室の扉がノックされた。
司書と共に入ってきた横光は、案内された川端の隣に腰を下ろす。一連の説明の後、館長が川端の提案を示したが、横光は自分も行きます、と素直に依頼を受けた。
詳細を詰める司書と館長のやりとりを聞きながら、川端は複雑な気分で空を見上げた。館長室の窓から覗く冬空は、暗い雲が重く垂れ込め、今にも雪が降り出しそうな様子を見せている。川端の視線に気付いた司書が、今日は降る予報でしたよ、と笑ったところで、その日の打ち合わせは終了となった。
ぼんやりとした花曇りの空に、崩れかけた文字と、インク溜りのような染みが浮かぶ。
細い通りがいくつか交わる、ひらけた大通りの中央に、人の背丈ほどの黒い何かが蠢いていた。
「ようやく、見つけましたね……」
細い通りの影から、大通りのそれを窺いつつ、川端は隣の横光にちいさく目配せをした。
依頼された本に潜って数刻。おそらく此処が最深部にして、浸蝕の発端部分だろう。
「そのようだな。川端は大丈夫か」
「ええ……利一こそ」
「こちらも大丈夫だ」
前回よりは順調だったが、それでもここに至るまでには、数度の戦闘をこなしてきている。横光との距離は、いまだにぎこちないままで、秋口からしばらくは同衾していない。にも関わらず、こちらを気に掛けてくれる友人に、川端は口元にちいさく笑みを浮かべた。
「やはり……どこか誘導して場所を変えるべきでしょうか……」
大通りは不意を突きやすいが、その後の対処が難しい。これが最後だと思うが、もしも新手が出れば、こちらが不意を突かれることになる。なにより、と川端は隣に立つ横光に目をやった。大丈夫だと言い合いながらも、お互い息が上がりはじめている。できる限り最短で、確実に仕留められる策を立てた方が良いだろう。そこまで考えた川端が、細い路地の奥を振り返ったとき、隣から、いや、という声が聞こえた。
「――行く」
低く微かな呟きと共に、隣にいたはずの横光の気配が消えた。慌てて目で追った川端が、状況を把握する間に、横光は侵蝕者のいる大通りに躍り出ている。彼は走り込んだ勢いのまま、手にしていた薙刀を下から上へ薙ぎ払う。その衝撃を受けて、舗装されていない道路に土埃が舞い上がった。
不意を突き斬りかかった横光の刃は、しかし一歩遅く、侵食者によって弾き返される。よろめく横光に、鎌鼬のような衝撃が向かう。それを薙刀の柄で受け流して、横光は蹈鞴を踏みながらも、半歩距離をとった。
形勢は悪い。友人の意図や、気まずさを考慮している場合ではないだろう。
「利一っ」
同じく走り出た川端は、侵蝕者の脇腹に刃先を向けた。死角から二撃目が来るとは思わなかったのだろう。怯んで仰け反ったそれの喉元を、後ろに控えていた横光の繰る薙刀の刃が、容赦なく撫でる。粘度のある黒々とした液体が空を舞った。
致命傷とは行かないまでも、それなりに深手になったはずだ。斜めに傾ぐ敵の姿を視界の端に捕らえて、川端は横光の羽織の後ろを引っ掴むと、地面を蹴った。
「どうして、貴方は、そうやって――」
横光の後ろ襟首を掴んだ川端は、大通りを抜け細い路地の奥に走り込んだ。その勢いのまま、横光の背を壁に押しつけ、自らの腕で閉じ込める。
「勝手はしないと、約束したはずでは」
切らした息にまかせて声を出すと、思いの外大きな音になった。それをどう取ったのか、横光は叱られた子供のように目を伏せる。
「…………手前は」
短い沈黙の後、聞こえた横光の声は、かすかに震えていた。
「手前は、堅物で世事に疎いつまらない男だ……それでも、菊池さんに出会えて、貴方と友人になり、筆を競えるのが嬉しかった」
鈍い音を立てて、横光の握っていた薙刀が、地面に落ちる。
「そして貴方は、そんな手前のことを友人と呼んでくれた。手前にとっては、それが何より大切なことだった。だからこそ、貴方の友人として、相応しい自分であろうと努めてきたつもりだ――」
ひと息に言い切った横光は、いったん言葉を止め、ため息を吐くように言葉を紡いだ。
「貴方が、こちらで書いた文を読んだ。素晴らしかった……」
「そう、ですか……」
「貴方への想いも、文学も、こちらでの仕事も、貴方に負けたくなかった……」
すまない、とちいさく呟いて、横光は俯く。
「手前は……貴方の友人でありたかった」
悄然と俯く友人の、眩しいまでの若さと、実直すぎるいじらしさに胸が詰まって、川端は思わず目を細めた。そして、互いのためにも此処で最後にすべきだ、と老いさらばえた作家が、川端の頭の中でペンを取る。
「――ええ、そうです……私は、貴方の友人ですよ……」
ぞろり、とする背後の気配と、狡猾なプロットを組み上げる脳内に、密かに酷薄な笑みをほぼしながら、川端は口をひらいた。同時に、肩越しの気配に顔を上げる横光を、目線で制する。
両側を壁に挟まれた細い路地は、元から薄暗かったが、いつの間にか、そこに一段暗い鬱々とした影が差している。そのまま、静かに笑って、川端は握っていた戟を逆手に持ちかえ、戟の切っ先を後ろへ突き立てる。
――手応え。獣のような咆吼が周囲に響いた。時を置かず、使い古したインクの匂いと共に、肩口から背中にかけて、どろりとしたものが降ってくる。
「――友人に先立たれ、その友人に執心して情欲を求める、哀れな老作家。これが、貴方の友人ですよ……」
こちらを見上げる横光の瞳に、それを見つめる川端が映り込む。背中から墨汁を被ったような姿は、なかなかに壮観だ。
「か……わ、ばた」
状況に困惑してか、子供のように目を瞬かせる横光に、川端は思わず苦笑いをこぼした。これでは若者どころか、本当に子供だ。けれど、ここで手を緩めるわけにはいかない。
「読んだのでしょう、原稿……あれが、私の時間です」
ひと晩で書いたにしては上々でしょう、もう少し推敲すればいくつか賞を狙えるはずです、と笑いながら、けれど有無を言わさず、川端は横光の作家としての矜持に蓋をする。彼の原稿を心待ちにしていた菊池の事を思うと、少しばかり良心が咎めたが、致し方ない。下手な対抗心でもって、先ほどのように先走られてはやっかいなのだ。
「貴方を見送って……待つ間に、私が貴方に抱いていた憧れや友情は、もう執着や愛欲と混ざってしまった……」
「…………」
無言のままでいる横光に、川端は再び笑いかける。そして、ふと、その横光の頬に、黒い滴が付いていることに気が付いた。さきほどの侵蝕者のそれだろう。どうやら、自分の背中だけでは、庇いきれなかったらしい。拭ってやろうと指先を伸ばしたが、侵蝕者のそれが特殊なのか、川端自身の手も汚れていたためか、友人の白い頬に、いたずらに汚れを広げただけになった。
――やはり自分は、あの化け物達とそう変わらないだろう
端から見れば、まるで自身が侵蝕者として、友人の頬を汚しているような光景。その皮肉に、内心で自嘲しながら、川端は続きを口にする。
「貴方が……あの日、私を置いて行ったから……」
言外にお前の所為だと含ませれば、真面目で心優しい友人は、もうこちらに抵抗できない。
――虚栄と孤独を古インクのように練り上げ、己の側に引きずり込む
「どうか……私の空白を、埋めてくれませんか……」
口実はどうあれ、どうせ散々に身体を重ねた後なのだから。そう耳元で囁けば、腕の中にある横光の肩が、ちいさく強張る。
――卑怯で、老獪で、罪深い。
「……っ、あ」
「貴方は、ずっと、私の可愛い友人ですよ……」
川端は横光が口をひらく前に、畳み掛けるようにして言葉を重ねた。
最奥の侵食者が倒れたことで、浄化の青い光が世界を縁取る。
「そろそろですね……」
帰還の合図も近いだろう。
「利一、目を……」
川端は、もの言いたげな横光の瞼を、掌で覆った――