月めくり:思い出をひらくと鮮血みたいに温かくまばゆい
横光が、潜書の指名を引き受けたのは、単純に適任者が自分ならば、という理由である。同時に、拗れてしまっている川端との関係に、けりをつけなければ、と思っていたのも事実だった。
友人の気遣いを察しないではなかったが、それはかえって、燻っていた横光の微かな対抗心を煽るもので、結果として横光自身の独断を後押ししたとも言える。
「どうして、貴方は、そうやって――」
横光の目の前で、吐く息に任せて川端が声を荒げる。
引きずり込まれた薄暗い裏路地で、いつにない様子の友人を前に、横光は思わず目を伏せた。
けりをつけるつもりだったのだ。けれど、侵蝕者を前にして、一瞬だけ欲が出た。現世で生きた時間は劣っても、帝国図書館の仕事ならば、横光の方が手慣れている。敵わないのならば、せめてこれだけでも、と。気付いたときには、もう横光の足は走り出していた。
川端の、まるで子供を叱るような言葉を聞きながら、横光は内心で自嘲気味に笑う。せめて、と焦った結果がこのざまである。これ以上恥を重ねるよりは、己の言葉できちんと説明をするほうが、幾分ましだろう。
押しつけられている壁の冷たさを背中に感じながら、横光は観念して口をひらいた。
「手前は――――」
これまで抱えていた葛藤を、洗いざらい喋り終えた横光は、深い息と共に下を向いた。友人である川端の顔は、恐ろしくて直視できない。醜い嫉妬と子供じみた劣等感を、友人はどう受け取っただろうか。
顔を上げられず、俯く横光の頭上に落ちたのは、予想外に柔らかな声だった。
「――ええ、そうです……私は、貴方の友人ですよ……」
どこか甘ささえ漂う川端の言葉、それと同時に現われた気配に、横光は弾かれたように顔を上げた。ぞろりとした気配を伴って、川端の肩越しに漆黒の靄が立ち上がるのが見える。横光はとっさに動こうとするが、川端の目線がそれを制した。瞬間、川端の手に握られていた戟が、背後の靄に突き刺さり、そのまま振り上げられる。
獣のような咆吼が響き、使い古したインクのような匂いが辺りに漂った。ぱた、と横光の頬に水滴が落ちる感覚がする。
「――友人に先立たれ、その友人に執心して情欲を求める、哀れな老作家です……」
振り上げた戟を下ろしながら、川端は何事もなかったかのように続きを口にした。その口元には穏やかな微笑みが浮かぶ。
「か……わ、ばた」
その言いように、横光は思わず友人の名前を呟いた。
「読んだのでしょう、原稿……あれが、私の時間です」
見つめる先の友人は、侵蝕者を屠ったせいで、後頭部から背中に掛けて、ぐっしょりと墨に濡れたようになっている。
「貴方を見送って待つ間に、私が貴方に抱いていた憧れや友情は、もう執着や愛欲と混ざってしまった……」
言いながら横光を見下ろす瞳は、もはや友人のそれではなく、彼の原稿に描かれた、年老いた作家のそれだ。けれどそこに、雪原を悄然と彷徨う友人の後ろ姿を、朧気ながら確かに認めて、横光は出すべき言葉を見失った。
「…………」
その沈黙をどう取ったのか、川端は横光に対して、もう一度柔らかく微笑んだ。そして、そのまま腕を伸ばし、先ほど滴が落ちた横光の頬を指先で撫でる。
他人と比べればひんやりとした、けれどよく知った温もりに、横光の体温もつられて上昇していく。ひと撫でされるごと、ふたりして師匠の元でした些細な仕事や企画、交わした手紙や何気ない会話が、傷口から落ちる鮮血のように、横光の脳裏に溢れ出していく。
――どうしたって、平等に同じ時間を共有していた時代には戻れないのだ。
改めて感じる実感に、胸が締め付けられるような痛みを覚え、横光は瞼を伏せる。そのまま言葉を紡げないでいると、川端はちいさく苦笑をこぼした。
柔らかな指先が、横光の口元を優しくなぞって離れていく。
「貴方が……あの日、私を置いて行ったから……」
咎めるような川端の言葉に、横光の胸の奥が甘く痺れた。自分が、彼をここまでにしてしまったという罪悪感と、同輩だった友人に、当たり前のように若年として扱われる屈辱、自分の存在が、友人の心をここまで乱しているという、後ろ暗い微かな優越感が、横光の胸の内に絡みつく。
――認めて、受け入れて従ってしまえば、楽になるだろう
こちらを見つめる川端の瞳に、逡巡する横光自身の姿が映り込む。
本当は、はじめから気付いていたのだ。あの夏の薔薇園から――いや、雪原で友人の手を取ったときから。川端が自分に望んでいるものが、生前の友情以上であることを。それでも、身体を重ねてなお、友情を建前に目をそらせてきたのは、変わってしまった現実を直視できない、横光自身の弱さだ。
――ここで終わりになるのだろうか、友人への贖罪も、見苦しい嫉妬も。
続く川端の言葉は予想できたが、横光は聞きたくなかった。この先を聞いてしまえば、自分は作家としての矜持や自尊心も放り出して、差し出された彼の指を舐めるだろう。けれど、そうすれば彼は満足し、自分も救われるのだ。
「どうか……私の空白を、埋めてくれませんか……」
横光の葛藤をよそに、川端は囁くように続けた。そして、口実はどうあれ、どうせ散々に身体を重ねた後なのだから、と言葉を重ねる。
考えを見透かされたような川端の囁きに、横光の肩が思わず強張った。
「……っ、あ」
横光は思わず口をひらくが、それが声になる前に、川端は言葉を繋ぐ。
「貴方は、ずっと、私の可愛い友人ですよ……」
駄目押しのような台詞に、横光は今度こそ観念して肩の力を抜いた。それを正しく了承と理解したのだろう、川端は緩やかに目を細める。
青い光が世界を縁取った。最奥の侵食者が倒れたことで、本の中が浄化されたのだろう。
「利一、目を……」
川端の掌が、横光の瞼を柔らかに覆う。同時に、横光の唇に川端のそれが重なった。
合わせた唇の隙間から、川端の舌がやや強引に差し入れられる。横光は、入り込んでくる熱いそれを、素直に受け入れた。川端の舌が、なめらかに上顎を撫で、歯列の裏を丁寧に辿る。
必要とされているという感覚に、背筋に甘い震えが走り、横光は、両腕を川端の背に回した。黒く湿った羽織の背を握込むと、彼の方からも強く抱き返され、川端の満足げな気配が伝わってくる。横光からも舌を差し出すと、川端はそれを絡めとり強く吸い上げた。
「んっ……つ……」
息継ぎの間に漏れる互いの吐息と、水音だけが響く。
やがて、離れた二人の間を銀糸が繋ぎ、川端はそれを拭うように、横光の頬を撫でた。
「そういえば……要望をひとつ、保留にしていました……」
思い出したように言う川端に、口付けの余韻が残った横光は、それでも、ぼんやりとした頭で頷く。
「ああ……そういえば」
決めました、という川端の微笑みと共に、横光の耳元に唇が寄せられた。同時に、視界の端に淡い光が見える。帰還の合図だろう。
囁かれる要望を聞きながら、横光はそっと目を閉じた。