月めくり:信じていたのか祈っていたのか
※かなりぼかして書いていますが、致してる描写がありますご注意ください。晦日の晩は、慌ただしく賑やかに過ぎていく。
翌朝の新年に備え、昼前から料理の仕込みに精を出す者、日暮れ前から酒瓶を開けはじめる者、翌日の初日を拝むため、早々に寝間着に着替える者など様々だ。
横光と川端も、夕食をとった後は、先日の潜書の疲れを理由に、自室に引っ込んでいた。
本来なら、横光も師匠や他の手伝いをすべきところだろう。けれど、日付が日付である。師匠や他の面々から、気遣うような視線を向けられて、横光としては返って気が咎めた、というのが正直なところだ。
その気遣いは、いま横光の浴衣の紐を解いている川端も同様らしい。結び目を解いた手を止め、ちらと横目でこちらを伺っている。晩年の記憶が朧気な自分には、他人事も同然なのだが――ちいさく苦笑いしながら、横光は自身の浴衣の前をくつろげた。それを正しく了承と受け取ってくれたのだろう。かすかに微笑んだ川端の指先が、横光の脇腹をなぞり、細い帯を抜き去る。
カーテンの隙間から見える外は、小雪が舞っているようだった。裏庭の外灯に薄く積もる雪が反射して、灯りを消した室内でも、ほんのりと明るい。
布の滑り落ちる微かな音が、静かな室内に響いた。
川端は、横光自身よりも横光の身体の扱いを心得ているようで、どこをどう触れば感じるのか、いとも簡単に暴いてみせた。胸元をそっと撫でられ、首筋を軽く吸われただけで、横光の下腹部は熱を持ち始めている。
「ん……ふっ……川端」
「ええ……」
こちらへ、と促されるまま、横光が寝台に仰向けになると、太腿に手が添えられ、腰が持ち上げられた。そのまま事が始まる野かと思えば、再びゆっくりと下ろされる。戻された腰の下には、クッションが敷かれていて、横光はかすかに目を細めた。自分の知っている友人は、こんなに器用なことができる男だったろうか、そう思うと同時に、彼が晩年に綴った文字の艶めかしさを思えば、当然だろうとも思う。
「いけませんね……」
横光が考えを巡らせていると、上から声が落ちてきた。見れば、後ろをほぐしていた手を止め、困ったように眉を寄せた川端の顔がある。
「寝台で、他の男のことを考えるのは」
不機嫌そうな口調とは裏腹に、表情には柔らかさがあった。
「いや、これは――」
「わかっています……私のことを想ってくれていたんでしょう?」
言いかけた声を遮るように、耳元で甘く囁かれてしまえば、それ以上言葉を重ねられるはずもない。結局、横光はそのまま口を閉じた。すると再び川端の手が伸びてきて、今度は前へと潜り込んでくる。その手つきは優しく、指先はひどく慎重だ。
「……っふ」
思わず息を詰めると、宥めるように頬へ口づけが落とされた。横光が見上げると、川端は不敵に笑ってみせる。
重ねたであろう年相応の余裕と、実績に裏打ちされた傲慢――なるほど、これは確かに自分の知らない男だ。横光は内心で頷く。しかし、よくよく見れば横光を見下ろすその琥珀の瞳は、年長の余裕を見せながらも、どこか縋るような子供の色をしている。その複雑な色を映す瞳に、変わらない友人への愛しさと、変わってしまった友人の心を、それでもなお自分が支配し続けているという昏い喜びに、横光はちいさく身震いをした。
「痛みますか」
そのわずかな気配に気付いたのだろう。胸元を舐っていた川端が身を起こした。
「いや」
薄暗い背徳感を誤魔化そうと、横光はそっと手を伸ばして川端の髪を撫ぜた。白練の髪が乱れて、普段は隠れている琥珀の片目が現われる。それを覗き込むようにして、横光はその額に唇を押し当てた。
「煽りますね……」
「煽られてくれるのか」
「ええ」
川端は満足げに目を細め、勢いよく横光の唇を塞いだ。舌が絡まる音と共に、互いの体温も上昇していく。
やがて、川端が横光の足を抱え直す気配があって、腰が持ち上げられた。自然と上体をそらす形になったところで、潤んだ後ろに熱いものが押し当てられる。
訪れるであろう痛みと甘い快楽に備えて、横光は目を瞑った。
雪明かりの室内には、寝台の軋む音と、押し殺した吐息だけが響いている。
抜き差しの速度を緩めて、川端は顔を上げた。新年の到来を告げる鐘の音は、まだ聞こえていない。
いつもとは当たる角度が違うのだろう。抱え上げた横光の内股の筋が、漏れ出る喘ぎ声と同時に震え、添えている川端の掌に伝わる。若馬の駆けるさまを、手の中で感じる喜び――その感触に、思わず微笑んだ川端が目線を落とすと、見上げる横光が、不服そうな顔で視線を送っている。どうやら、先ほどの考えが口に出ていたらしい。
「手前は、馬か」
「レトリックです、貴方の得意な……」
言いながら、少し乱暴に奥を突けば、文字通りの嘶きが返って、川端はちいさく声を上げて笑った。
「――そういうところが、可愛いのですよ」
「……ん、あっ」
川端が動きを止めて、横光の下腹に手をあてて撫でると、甘い吐息と共に中の肉壁がひくりと動いた。その温かさと反応の良さに、川端はますます笑みを深くする。
生前の横光は、走り去る駿馬のごとく、川端の前からいなくなってしまった。そして、彼によく似ていたもう一人も、川端の手をすり抜けるようにして逝ってしまった。けれど、横光は今こうして自分の目の前にいる。自分と交わり、汗を流し、呼吸をしている。これを幸福と呼ぶ以外、一体何があるというのか。
「逃がしません……」
たとえ、作家として、友人としての彼を失ってでも――
そこまで思ったところで、下から自分を呼ぶ声がした。
「――川端、どうした」
急に動きを止めたので、不審に思ったのだろう。見れば、横光の顔には不安そうな色が浮かんでいる。川端は、自分の思考に引きずられていたことを悟って、苦笑いを浮かべた。
「いいえ……」
こちらを見上げる横光は、息も上がり蕩けたような目をしている。そろそろ限界が近いのだろう。それでもこちらを気遣ういじましさに、川端の欲はさらに掻き立てられていく。
「なんでもありません……貴方が、可愛くて仕方がないだけですよ」
言って、川端は律動を再開した。次第に激しさを増す動きに合わせて、寝台が軋む。気付けば、横光の両足が川端の腰下に絡みついていた。きつく締め付けるそれすらも心地よく感じられ、川端も徐々に余裕を失っていく。
絶頂を極めたのは、ほぼ同時だった。余韻に浸りつつ、互いの身体を抱き締めると、横光の心臓が脈打つ音が伝わってくる。その鼓動を聞きながら、川端は満ち足りた幸福感に、ゆっくりと目を細めた。
「利一、約束のものは……」
事後の処理を終え、水差しの水をグラスに注ぎながら、川端は横光に声を掛けた。時計に目をやると、すっかり年が明けている時間である。
声を掛けられた横光は、ああ、と寝台に横になったまま腕を伸ばし、サイドテーブルに置いた数枚の紙束を川端に手渡した。それは、川端のもとから紛失していた一枚と、横光が川端に再会するまでに書き溜めた短編の原稿だ。
「別に、わざわざ要望として言わずとも持ってきたが」
「そう言いながら、一ヶ月は持っていたのでしょう……」
う、と言葉に詰まる横光がいとけなく、川端は微笑む。
結局川端は、長らく保留にしていた要望を、横光が持っていた川端のそれと、横光自身の原稿を自分に渡させることに使った。やりようはいくらでもあったが、川端にとって、これが一番手っ取り早かったのだ。
水のグラスを川端に渡した横光は、寝台の下に置いていた風呂敷包みを、書き物机の上に置いた。
「――灰皿」
寝台で身を起こした横光が、包みを解いた川端の手元を覗き込んで呟く。
「ええ、あとは私の原稿の残り……こちらは、今夜だけ談話室から失敬してきました」
川端が取り出したのは、自身の書いた原稿と、談話室にいくつか置いてある灰皿だ。華やかなガラス製のそれは、愛煙家が多い文士達の使用に耐えられるよう、大型で頑丈なつくりをしている。
川端は原稿用紙を手に取ると、その灰皿の上で破りはじめた。安物の紙を使った原稿用紙は、微かな音を立てながら、川端の指先でちいさく引き裂かれ、灰皿の上に落ちていく。
「川端っ」
慌てたような横光の声に、川端は自分の唇に指をあて、しい、と制した。そのまま、手の中から溢れる紙切れを、灰皿の中へ落としていく。何度かそれを繰り返すと、華やかな灰皿の上に、原稿用紙で作られた、白い雪が積もった。
「受け取った以上、これは私の裁量です……」
言いながら、川端は用意していた燐寸を擦って、灰皿に投げ入れる。雪明かりに照らされたほの白い部屋に、小さく赤々とした火が点った。紙の燃える焦げ臭さと、ほのかに甘い匂いが室内に漂う。
「川端……」
いつの間にか、寝台から降りた横光が隣に来ている。
「……言ったでしょう、私は貴方の友人ですよ、と……」
「ああ……そうだな」
どこか寂しげに笑った横光の手が、そっと川端の手に触れる。そのぬくもりを感じながら、川端もまた静かに微笑んだ。
灰皿の中の炎は二人分の原稿を燃やし尽くし、やがて小さな火種となって儚く消えていった。