月めくり:いびつな楽園が聞こえる
「よお、あいかわらず仲が良いな」
覗いた扉の向こうに、楽しげな弟子ふたりの姿を見つけて、菊池は声を掛けた。
「先生……」
「菊池さん」
扉に背を向けていた川端が、穏やかに微笑みながら振り返り、その向こうから、横光が明るい顔を出す。
「すまんな、ちょっと声が聞こえたんで」
「いえ」
言いながら部屋に入った菊池に、横光は場所を空けながら、笑って答える。
「良い色だな……次は野点か」
使う道具を吟味していたのだろう。弟子達の手元には、それ用の茶道具一式と、趣味の良い茶碗がいくつか並べられていた。
「ええ、川端が良いのを見つけてくれたので」
「ですから……無駄遣いではないと言ったでしょう……」
「それでも、程々にだな――」
くすくすと笑みをもらしながら続く、弟子達の他愛ない掛け合いに、端で見ている菊池も目元を緩ませる。
秋口から、傍目にも分かるほど、互いの距離を取っていた二人だったが、年明けからは以前の雰囲気に戻っているようだ。なんとか元の鞘に収まったか、とその様子を見ながら、菊池は密かに苦笑いをこぼす。元からとはいえ、茶道具にはしゃぐ弟子達は、仲の良い双子か兄弟、いっそ恋人にでも見えるような親密さだ。
――自分が取り持った仲だが、ここまでとは。
苦笑しながら目線を上げると、開けた窓からは、裏庭で咲いている早咲きの桜が覗き、遠くからピアノの音が聞こえてくる。
どちらの茶碗が良いですか、と張り合う弟子達に、俺は詳しくないぞと笑って答えてやりながら、菊池はふと口をひらいた。
「ああ、そういえば、原稿の方は進んでるか」
世間話の一端、それくらいの気分で口にした言葉だったが、その瞬間横光の顔が僅かに曇った。
「ん、どうした」
菊池は何事かあったか、と眉をひそめる。
「あ、いえ」
それに対して、横光は慌てたように首を振った。
「すみません、大丈夫です」
生真面目な弟子がこういう物言いをするときは、往々にして大丈夫ではないときだ。菊池が事情を聞き出そうと、口を開きかけたとき、ええ、と川端の声がそれを遮った。
「まだ、あまり進んでいないのです……」
口元に苦笑を浮かべた川端は、言いながら横光の手の中にあった茶碗を取り上げる。
「なんだ、そんなことか。俺は別に、催促しに来たわけじゃないんだぞ」
「利一は、内緒にしておきたかったのですよ……」
何事かと身構えていた菊池は、拍子抜けして息を吐いた。ちいさく笑った川端は、茶碗の縁を指先でなぞりながら、横光へと目配せを送る。視線を受けた横光は、ばつが悪そうに、すみません、と苦笑いをこぼした。
「ですから、説明しておいた方が良いと言ったでしょう……」
言いながら、茶碗の縁をなぞっていた川端の指が、今度は横光の頬に触れる。川端は満足そうに目を細め、触れられた横光の方は、躊躇いがちに瞼を伏せた。その様子は、まるで愛犬を優しく諫める飼い主と、それを甘んじて受け入れる子犬のような光景だ。
「……そんなわけで先生、少々提出が遅れても」
「ん、ああ、気にするな。元々出版するようなもんじゃないんだ」
弟子達の仕草に気を取られていた菊池は、我に返って慌てて意識を引き戻す。締め切りも何も、菊池が弟子の新作を読みたい、という興味だけである。
「気にするな、気長に待つさ」
その一言で片が付くなら、それに越したことはない。どうせ、生前には年単位で締め切りを踏み倒す者さえ、少なくなかったのだ。そう菊池が笑いかけると、川端は柔らかく微笑み、横光は安堵したように、ありがとうございます、と頭を下げた。
「それじゃ、邪魔しても悪いから、俺は行くな」
「はい」
あまり根を詰めるなよ、と言って菊池はそのまま部屋を出る。
廊下に出て扉を閉めたところで、菊池はひとつ息を吐いた。そして、先ほどまで見ていた光景を思い出す。
弟子二人が谷崎の言うように深い仲になっていたとして、菊池はそれに否を唱える気はない。それならそれで、また新たな関係を築いてくれれば良いのだ。けれど、先ほど見た弟子達の仕草に、どこか僅かな違和感を拭えないのも、また事実だ。
「しかし……」
昔から、色恋が人変えるのはありふれた話だ。ありふれた話だが、その変化に、どこか歪で不安定なものを感じてしまうのは、自分だけだろうか――
そこまで考えて、菊池は頭を掻いた。
「まあ、俺がとやかく言っても仕方ないだろうが……」
そう呟きながら、開け放した窓の外を眺める。ここ数日は気温も良いので、桜が満開になるのも近いだろう。
ピアノの音も相変わらず聞こえている。一年経っただけあって、そのパッセージは滑らかで淀みない。曲調も、以前のあどけない練習曲から、大人びたソナタに変わっているようだ。
穏やかな旋律に耳を傾けながら、ざわついた感情に蓋をするように、菊池は煙草に火を付ける。
「…………」
ため息をつくように、菊池は深く息を吐いた。キャメル独特の、少し癖のある風味を残した煙が、辺りに漂う。
桜が咲き落ちれば、やがて四月だ。この帝国図書館で、二度目の人生を歩む文士達の一年が、また新たに始まるのだろう。
菊池の吐き出した煙は、ピアノの旋律と戯れるように漂い、春の風に吹かれて、ゆっくりとかき消されていった。