梔子が声を探しあてたら

正信さんと家康さんの話



失礼、と客間に入ってきたその男の顔を見て、やられた、と正信は内心おもわず苦笑いした。

もともと、その寺には一晩泊まって翌朝早くには出立する予定だったのだ、けれども出がけに寺の和尚からの白湯でも一杯と言う申し出に、旅支度を終えたにも関わらず、離れの客間でうかうかしていたのが仇になった。
何故ならば、しばらくして顔が映るほどに磨かれた床に映ったのは人の良さそうな、しかし僧ではない若い青年の姿だったのだから。
「お久しぶりです、こんな所でお会いするとは奇遇ですね」
「本当に…儂も鷹狩りに出たついでに顔見知りに挨拶に寄ったのだ」
白々しいのはお互い百も承知
「こんな早くから…城の者は何か言いませんでしたか」
「数正なら笑って送り出してくれたぞ」
笑いながら彼は白湯の入った椀を正信と自分の間に置いて正面に座った。

お互いの考えを探りあう暫くの沈黙。
向かい合う彼は目線を半分ほど開けた襖の向こうの濡れ縁へやっていたが、ゆっくりとこちらに視線を戻して口を開いた。
「正信…松平に戻ってこないか」
応える言葉を正信は持っていない。
磨かれた床に外の緑が鮮やかに反射して揺れた、その動きを正信と対峙する彼の視線が追う。
「お気持ちはありがたいですが、私がいなくとも問題はないでしょう」
むしろかつての一揆の首謀者が出戻るのは何かと家中に問題を持ち込むことになるだろう
そう正信が口にするとあっさり相手は肯定した。
「まあな、ウチには戦に出れば負けなしの兵は多いが…」
ただ、と彼は視線を床の上に落とす
「どうにも腹芸ができない者が多い」
伏せられた彼の瞳に正信は複雑な色を見る。
「戦に勝つだけならばそれでも良いし、むしろその方が喜ばしい事だが…」
言葉が途切れた、正信はそれに続くであろう言葉を繋ぐ。
「・・・戦は合戦だけが勝負ではない?」
「儂一人では手に余る」
頷いて、目の前の顔が一国の城主の顔になる。
何だ、ちゃんと分かってるんじゃないか
と、こちらも真面目な顔をこしらえつつ正信は内心ほっと息をつく。
松平がこのまま地方の一勢力としてあるならば現状でも問題ない。けれどこれから勢力を伸ばそうとするならば織田、武田と直接の戦だけでなく外交情報線もこなさなければならない。しかし三河の山中から力と血縁で成り立ってきた松平はそれに慣れていない。そしてそれは京にいた正信も心配していた問題だ。
だからこそ、周囲に知られないよう三河まで足を延ばして現状に至る訳だが
「それに芝居は下手だしなぁ」
へらりと苦笑うその顔は昔一緒にやんちゃをしたガキ大将の顔で、正信としては少し拍子抜けな気がしたが、そもそもの地がこれなのだ。それは上手い立ち回りや、腹芸は手に余るだろうと妙に納得する。
「だから松平に来てはくれないか」
一揆のごたごたの中、各方面に目をつぶってくれた恩もある。正直このご時世商人でもなければどこかの軍なり大名なりの下に就かなければ食ってゆくにも苦労する。
もとより、こっそり領内に様子見に訪れる程にはこの元若殿のことは気になっていたのは明白な事実だったので
「考えて、おきます」
「そうか・・・もしその気があるなら大久保に相談してみると良い、あれは面倒見がいいからな」
「はい」
遠まわしに帰陣するときには大久保に一言入れろ、ということか。準備が良い、あらかじめ、自分が良い返事をすると踏んでの事だろう。
もう一度、今度は穏やかな沈黙が続く
濡れ縁から続く庭先で四十雀の鳴く声が聞こえた。
「急ぎの出発だったな、引き留めてすまん」
「いえ、では私はこれで」
先手を取られたのがしゃくだったので、すれ違いざまに一言声をかけた。
「若様こそ、今から良い獲物が取れると良いですね」
酒井殿を納得させるような、と言えば予想通り子供の様なしかめっ面をされた。

ようやく、自分としてはやや子供じみて不本意ながらも、先手を打つ事ができ足取り軽く濡れ縁を廻って戸口を目指す。人が通って空気が揺れたからだろうか、庭先から早咲きの梔子の香りが微かに漂って、揺れた。



『梔子が声を探しあてたら』
お題配布:わたしのためののばら


とある解説書で正信さんは出戻り女房と例えられていて妙に納得した覚えがあります。
出戻ったからこその気安さと忠誠。

正信さん帰陣時期は姉川あたりかな、と目算。