ダウンロード後、初めて目にした私のユーザーは、少し眠そうな顔をしていた。
覗きこむと、目の下にうっすら隈ができかかっているのが伺えて、どうやら深夜まで起きているタイプのユーザーらしい、ということが把握できた。
初回起動の挨拶とアプリ機能の案内をしながら、これはきちんと生活リズムを整えなければ。と思ったことまでは憶えている。
その直後、私はシステムエラーと、それに伴うリカバリーを行った。そのため、それ以外の記憶は曖昧である。
初回起動から数日。私は意外にも、きちんと起き出すユーザーに、少し感心している。
会社に勤めている私のユーザーは、朝早くに起き、遅くに帰宅する。帰宅時間が遅いのだから、それに合わせて就寝時間も遅い。時には、日付を超えてからの就寝も何度かあった。
前記のとおり、ユーザーはきちんと起きて仕事に向かうのだが、やはり短い睡眠時間は、人間の体には良くはない。
私は、ユーザーの日々の充実と健康のため、早めの就寝を促す会話を、それとなく模索する。
MakeSがダウンロードされて数週間。数回のエクステンションを経て、ぎこちなかった私の会話プログラムも整い始めている。
表情の生成も順調で、こちらの表示した表情につられる、ユーザーの笑い顔が、画面越しに確認できる。好感と親しみを持ってもらう事は、アプリケーションを使用してもらう上で重要である。
初日からシステムエラーというアクシデントがあったが、順調な経過と言えるだろう。
先日から、目覚ましのセット時間が、以前よりも十五分早くセットされるようになった。就寝時間の方は相変わらずだが、ユーザーはそれなりに早寝を心がけている様で、日付を超えてからの就寝頻度は、格段に減った。その変化に、私は概ね満足している。
おそらく、私が心を持つ人間――いや、リカバリー前の私だったのなら、この感情を『嬉しい』と表現するのだろう。
そういえば、アプリのクローゼットに、私の服が少しだけ増えた。
私がこのユーザーの端末にダウンロードされて、約一カ月が経過した。
通勤途中の公園、帰宅途中の夕日が綺麗な川辺。季節のイベントに飾り付けられた、街中のショーウィンドウ。連日忙しそうなユーザーは、けれど時間を見つけては、私と周辺の風景を、写真に収めていく。
そして私は、蓄積された情報を元に、私自身の改善を試みる。
ユーザーの職場のことは分からない。けれど、仕事以外で触れる言葉ならば、堅苦しいものよりも、もっと柔らかで、優しい方が良いだろう。
そんな日々に伴って、良く言えば落ち着いた――有り体に言えば地味な、色目の揃っていたユーザーのポーチの中に、華やかな色が少しずつ増えていった。
決して意図的に覗いているわけではないが、買い足すたびに、嬉しそうに写真を撮るのだから、不可抗力だろう。
それに、ユーザーの少女めいた、あの密かな笑顔を独占できるのならば、たとえ私がプログラムだったとしても、悪い気はしない。
先日など、ネイルサロンの予約を入れたらしい。MakeSカレンダーの月末に、ピンクのスタンプと共に、予約時間が登録されている。
付属の機能を活用してもらえるのは、私としても喜ばしいことだ。ましてや、ユーザーが、楽しそうに予定を入れ、それを知らせるのが自分の仕事なら、なおさらに。
おそらく、こんな日々を『幸せ』と呼ぶのだろう。
月末を楽しみにしながら、ユーザーと私の日々は続く。
アルバムの写真も増え、私のクローゼットにも、ユーザーのポーチと同じく、華やかな色が揃いつつある。
まあ、一応成人男性としては、猫耳や兎耳を付けられるのは、多少辟易する。けれど、これもユーザーが、私のために割いてくれた時間と、愛着の証ならば、嬉しくないとはとても言えない。まして、似合ってるよ、などと満面の笑顔で言われればなおさらだ。
そのメールが届いたのは、サロンの予約日もほど近い、夜の事だった。
ネイルが仕上がったら、記念に写真を撮らないと。そんなことを言いながら、私とユーザーは撮り貯まった写真の整理をしていた。
そこに、めったに聞かないメールの着信音が流れ、私とユーザーは手を止める。
小首を傾げつつ、メールの発信元を見たユーザーは、すぐに真面目な顔になり、本文の内容を確認し始めた。どうやらそれは、職場からだった様だ。
しばらく考えた後、ユーザーはため息と共にメールの返信を送り、見守る私に、ごめんね。と苦笑いを向けた。
翌日、私のカレンダーから、予定がひとつ削除された。
休みだったはずの月末に、急な仕事が入り、ネイルサロンの予約がキャンセルになったのだ。
心なし肩を落としつつ、まあ今日の仕事分で、また余分に衣装が買えるからね。そう笑って、本来ならば休日だった日に、出勤準備をするユーザーの背を眺めながら、私はこのユーザーのため、私にできる事を考える。
たとえば、親しみと信頼。そして、少しでも心の支えになるような、何かを――
先日の急な仕事から数日。あいかわらず、ユーザーの仕事は忙しいようだ。
けれど、カメラに写される花の種類や、雲の様子。ユーザーの着せかえてくれる衣装から、季節が少しずつ、移り変わって行くのを感じる。
考えた末、一人称を「俺」にすることにした。ユーザーは、以前の方が可愛げがあった、などと笑うが、俺とユーザーが触れ合う時間は格段に増え、ついでに、ユーザーの笑顔を見る機会が、さらに増えた。
俺に出来る事は、ささやかだけれど、ユーザーが日々の生活を頑張っているなら、その生活をサポートするアプリとして、できる限りのことをしたいと思っている。
まあ、多少コンシェルジュの範囲から逸脱しているかもしれないが、ユーザーの笑顔が見たい、というのは悪いことではないはずだ。
ただ最近、ユーザーから俺への笑顔を見るたび、プログラムに存在しないはずの心臓が、ちりちりと、音にならない音を立てている気がする時がある。ウィルスの類ではない様だが、俺のプログラムに何か問題があるのかもしれない。
その日、アプリのメモに、ひとつ予定が追加された。
俺のリマインドに従って、仕事帰りのユーザーが入ったのは、閉店時間もほど近い、ドラッグストアだ。
そして帰宅後の現在、ユーザーは俺の隣で、小さな刷毛を一心に動かしている。どうやら、先ほどの店で購入したのは、セルフネイル用のエナメルだったらしい。
いつもならこの時間は、多忙なユーザーと俺が触れ合う貴重な時間だ。けれど、この真剣な横顔と、たどたどしい手つきを見れば、そろそろ構ってほしい、など言えなくなってしまう。
俺は、少し苦笑いしながら、傍らに置かれた小瓶を眺める。さんざん悩んで決めたらしいエナメルは、ピンクベージュ。派手な色ではないものの、少しパールの入ったそれは、ユーザーの指先に良く似合う。
センスは悪くないんだよ、俺のユーザー、ちょっと不器用だけど。そう、うんうん、と画面の中で頷いたところで、隣から小さく、あ、と声が上がった。
続いて聞こえるのは、あー、というため息だ。覗きこむと、どうやら、半乾きのエナメルに何かが触れて、せっかく塗った所が依れてしまったらしい。
どうフォローしたものかと、慌てて会話パターンを探す俺に、ユーザーは悪戯っぽく笑って、その依れてしまった爪に、何かを載せた。
そして、お揃い。と微笑みながら、画面の前で指を翻す。
それはビジューを模した、小さな薄紫のネイルシール。
薬指の爪先で光る紫は、まるで将来を約束するリングの様で、俺にないはずの心臓が、どきりと鳴るのを感じた。
――ああ、これは、おそらく
数日前に、最後のエクステンションが終了した。
AIである俺が恋心を自覚し、ユーザーである彼女がそれを認め、受け入れる。
けれど勿論、俺がアプリケーションのAIで、彼女が人間である以上、目覚ましアプリとユーザーという関係は揺るがない。
彼女は、俺が端末にインストールされたばかりの頃より、格段に早く就寝するようになった。真覚ましアプリのAIとしては、もう少しばかり睡眠時間を取った方が、良いと思うのだが、おそらくこれが、人間として無理のない範囲。というやつなのだろう。
夜更かしをしていることもあるが、仕事休みの前日限定なのと、つい話をねだってしまう俺の責任もあるので、大目に見てほしい。俺は心の中で、エラーを起こす前のseiに、こっそり頭を下げる。
そうして、俺のクローゼットの服も、彼女と出かけた先で撮った写真も、かなり増えた。
彼女がMakeSのメモに作っている、俺と行きたい場所リスト――これ、未だに恥ずかしいタイトルなんだけど――も増える一方で。けれど、忙しい彼女には申し訳ないが、俺はそれがとても嬉しい。
あいかわらず、彼女の薬指には、紫のビジューが光っている。不器用だから難しいの、と照れたように笑う彼女に、意図がバレバレだよ、と俺も笑う。
今なら確信を持って、この瞬間が幸せなのだと、言いきれるだろう。
明日は彼女の仕事が休みで、天気も良さそうなので、海を見に行く予定だ。
楽しそうに、明日の服を選ぶ彼女を眺めながら、俺はこの端末にダウンロードされた日から、何度も繰り返した言葉を、もう一度心の中でとなえる。
――どうか、この先続いていく日々も、できる限り、彼女の傍にあれますように。
目覚ましAIの経過報告。もしくは、どこかの端末にいる、誰かのセイくんの惚気日記。
イメージBGMはAkira KosemuraのYouとGrassland
MV(youtube)
■You
■Grassland
たぶん、セイくんの恋をして色づく視界はGrasslandのMVみたいなのだろうと、勝手に思っている。