かすれていく歌声に捧ぐ
マドリード空港近くのターミナル駅から、電車に揺られて数駅。
定刻を(奇跡的に)やや遅れて、ホームを出ていく電車の音を聞きながら、俺――南イタリアは、軽く伸びをした。
朝の気配を残す、五月に入ったばかりの、穏やかな日曜。
観光の目玉は、この街よりもう少し前か、もっと向こうの街なので、その両方から程良く離れたこの街は、人もまばらで、どこかのんびりとした空気が漂っている。
駅前から目的地までは、バスも出ているが、時間もあるので俺は歩くことにする。
駅近くには、比較的新しい店舗や集合住宅、その周りに昔からある戸建の家々、迫からさらに先に、伝統的な建築様式と広い庭を持つ、古い家。
古い家の区画の終端から、さらに数軒先。大きな椿の木が植えられた前庭と、裏に広い家庭菜園がある、ひときわ古い家。そこが俺の目的地。
この国――スペインの現在の住居だ。
数年前に塗りかえられた(何故かピンクに塗ろうとしいて、居合わせた俺とフランスが必死で阻止した)表の木戸に手をかけて、あれ、と俺は首を傾げた。
家主がサッカー観戦をしていたり、古い友人を招いていたりしている時以外は、静かなはずの家の中から、人の気配と、賑やかな話し声が聞こえてくる。
今日は大きな試合も、知人が来ているという話もなかったから、俺は聞いてねーぞ、と玄関先に目をやると、戸口の脇に、明るい色の子供用自転車が目に入った。
なんとなくの予想をつけて、いつも通り呼び鈴を鳴らさずに、勝手に家に入る。荷物を、最近では俺専用になりつつある客間に下ろして、人の気配がしたキッチンを覗く。
数年前に改装して、庭に面して大きく窓を取った、広くて明るいキッチン。そこでは予想通り、10歳前後の子供たちと、家主のスペインが、何やら作業をしていた。
とりあえず、俺はキッチンでちょこまか動く子供たちを目で追う。内訳は、男の子が二人、女の子が三人。普段は、男二人が並んで料理をしても余裕なキッチンだが、これだけの人数が入ると、少し手狭だ。
ついでに、こちらに気づいて、あれ、もう来たん?というスペインの腕の中には、2歳くらいの幼児が、小麦粉の袋と一緒に抱えられている。
「いよいよ政府に見限られて、託児所でも始めたのか」
「ひっどいな」
俺の呆れ顔に対して、スペインは小麦粉と幼児を揺らして、へらっと笑う。
「俺、今日こっち行くって言ったよな」
「いつも、こっち来る言うても午後やん」
「そーだけど」
朗らかに告げられると、言い返せない。
「そりゃ、いつもは……って、そうじゃなくて」
何だよこれ、と砂糖の袋や、ボウルを持って、こちらを伺っている子供たちを、目で示す。
「やー、前からこっそりチュロス作りたい、って言う子がおってな、ほんなら俺が教えたるよって」
「それにしちゃ人数が多くねーか?」
「友達呼んで、皆で作った方が楽しいやん」
「……」
さっき以上に、にこにこ笑うスペインは、こちらを見ている子供たちに向けて、勝手に俺の紹介を始める。スペイン親分の一番の子分で、皆くらいの頃にも、チュロスを教えてやったんよー、とかなんとか。
「いわば、皆のお兄ちゃんで、先輩やな」
「元子分な、もと。あと今日は俺手伝わねーぞ」
「はいはい、分かっとるよー」
久しぶりに、大勢の子供を相手にしたこいつは、ややハイになっているらしく、俺の話なんか、聞いちゃいない。
昔からこういう奴だったよなー、と俺は思わず遠い目をした。
なんだかんだで、大勢の兵を率いて戦場に立ったり、不安定極まりない、政治の補佐をしたりするよりも、自分の目に留まる、掌の中にいる者達に、心を砕く方が――国として同課は分からないが。此処にいる、こいつの性分には合っているのだ。
楽しくなりすぎると調子に乗って、人の話を聞かなくなる(馬鹿犬かよ……)のが、最大の難点だが。
とりあえず、子供たちが道具を並べるのを横目に、俺は先ほどから気になっていた、スペインの腕の中の幼児をつつく。
「おい、ちびにシャツの襟食われてるぞ…つか、こいつにチュロスはまだ無理だろ」
「ああ、ちゃうちゃう、この子はお向かいさんちの子」
スペインは、めっ、と笑って言いながら、大げさに子供を抱え直す。そのまま、子供の前髪をつまんだり、指を目の前でひらひらさせたりしながら、徐々に子供の興味をシャツから移していく。無駄に手慣れているのが、見ていて妙に腹立たしい。何故ならこの手は、俺もやられた事があるからだ。
「ほら、ここ来るまでに見いひんかった?」
「えーと、なんか犬がいる家」
「そ、今日はお姉ちゃんが、マドレと映画行くから、イネスは親分とお留守番や」
元子分の心境なんて、知ったこっちゃないスペインは、良い子やもんなー、と腕の中の子供、イネスに笑いかける。話しかけられたのが嬉しいらしく、イネスはうー、とかあーとか、よく分からないながらも、ご満悦で返事をした。
まあ、気持ちは分かる。こいつの笑顔は、不安な子供を安心させる、謎の説得力に溢れているのだ。
「ああ、そりゃ良い子だな」
言いながら、俺は手近な椅子を引き寄せて腰かける。すると、ちょっとよろしく、と先ほどまで、スペインの腕に抱えられていた、イネスを渡された。落とすわけにもいかないので、とりあえず、膝に抱える。
スペインに似て――というか、俺たちがこいつらに似るのかもしれないが。人見知りしない子供は、初めて会った俺の膝でも、ご機嫌そうに笑う。
焦げ茶色のくせ毛に、愛嬌のある笑顔、こいつは将来美人になるだろう。うん
うっかり、子供を膝に座らせてしまったので、結局俺はチュロス作りを見学する事になった。
俺にイネスを預けたスペインは、使い込んだエプロンをつけて、子供たちに指示を出す。
温めて、粉を混ぜて、卵を加えて、生地を作る。油で揚げる所は、俺がちびの頃と同じく、スペインの担当だ。
現代仕様に改装されたキッチンと、最新型の(といっても、数年前の最新だが)調理器具が揃ったところで、やることは数百年前と変わらない。
ついでに、子供のやることも、そう変わらないらしい。量った粉を器の外にこぼしたり、こっそりシナモンを舐めてみたり。
苦笑いしつつ眺めていたら、シナモンシュガーを用意し終わったスペインと、目があった。こういうタイミングで、こいつと目が合うとロクなことが無い。
少し不敵に笑ったスペインは、俺の膝に座ったイネスを抱え上げ、俺の肩を軽く叩いた。
「ほんなら、仕上げにシナモン付けるで。 皆はこのお兄ちゃんに、お手本見してもらい」
「おい」
はあい、という良い子たちの返事を聞きながら、お前な、と目で抗議すると、イネスを抱えたスペインは、まあまあ、と笑う。
「ロマはこんなかで、一番ベテランさんやん」
「そりゃまぁ……」
なんせ百年以上のキャリアだ。
「それに、ここ百年くらいは、教えた俺より、ロマの方が上手にお菓子作るようになって……」
「あー、あーもう、分かったから、だまれこのやろーあと、俺はお前より断然センス良いんだかんな」
遠い目をするスペインの言葉を遮って、声をあげながら、思わず立ち上がる。(わざとらしい嘘泣きをされても、恥ずかしいだけだ)
「ん、せやんなー」
そのまま、さあさあ、と満面の笑顔で、作業台の中央に引き出される。集まったちびたちの期待の眼差しを受けてしまっては、後に引けない。それに、今日は少し特別な日なのだ。
「――今日だけだからな」
あらかたシナモンをまぶし終わったところで、イネスを背負って(おんぶ紐とか久々にみたぞ)、どこかから引っ張り出してきた、箱を開いたスペインが、声をあげた。
「あかんわ」
「どうした?」
ちびたちに、残りのシナモンシュガーを任せて、俺も箱を覗きこむ。
「リボンのストック、無くなってもうた」
「あーこりゃ足りねえな」
スペインが持ってきたそれは、元はクッキーか何かが入っていたらしい、菓子箱だ。褪せてはいるが、綺麗なピンクの花模様が、蓋と側面に施されている。
中には、上等な布の端切れや、レースやボタンなんかが、詰め込まれている。その中に、いくつかリボンもあるものの、どれも人数分の長さはなく、中途半端だ。色や幅を気にしなければ、足りるだろうが、やはり皆同じものにした方が、無難だろう。
「ベルが居た頃は、部屋いっぱいあったんだけどなー」
あかんわー、と能天気に呻くスペインに、俺は突っ込む。
「いつの話だ、いつの」
「えーと、マドリードの王宮にいた頃」
「おい、そうとう前だぞ、このハゲ」
「――な、ロマ、お遣い頼んでええ?」
しばらく箱の前で考え込んでいたスペインが、ちょっと困った表情で、俺の顔を覗きこんだ。こっち、片付けとくから、と背後の作業台を目で示す。
「……しょーがねえな」
面倒な片付けよりは、散歩ついでのお遣いの方がましだ。こいつの、ちょっと困った顔に絆されたとか、久しぶりに頼りにされて嬉しい、とかじゃない。
「ここの路地入る前の、雑貨屋でいいか?」
「ああ、お店のおばちゃんに、よろしく言うといて」
玄関先に立った俺は、スペインが部屋から取ってきた、薄い財布を受け取る。
「車に気い付けてな、より道はあかんよ」
「へいへい」
スペインの家を出て、駅の方へ少し歩く。戸建の家と、古い家とのちょうど中間にあるその雑貨屋は、この国らしい明るい雰囲気をした、思わず覗きたくなるような店構えだ。
カウンターに座る、愛嬌のある、ふくよかな妙齢のベッラに、スペインからの伝言を告げて、お勧めのリボンを見繕っていただく。
いくつか見せられた中から、少々値は張るが、幅広の明るい赤を選んだ。シナモンをまぶしたチュロスに掛ければ、生地の焼き色と合わさって、綺麗なコントラストになるだろう。我ながら、良いセンスだ。
会計を済ませ、ベッラからおまけのキスを頬にもらって、店を出る。
茶色の屋根と屋根の合間から、初夏の青空と、遠くにある教会の尖塔が覗いている。穏やかな、昨日も明日も、明後日も変わらないであろう風景。
けれど俺は、これが当たり前に続く風景ではない事を、知っている。
かつて大国と謳われた、この国が傾いていくのを、俺は見てきた。暮れかけた夕日が、一気に沈んでいくように、広い王宮からはひと気が消え、一緒に暮らしていた、俺たちのような奴らも、新しい居場所や、各々の土地へ戻って行った。
時代の流れと共に、幾度か大きな戦争や、ごたごたがあって、それでも、まだこの国は、スペインとして存在している。
トマトと昼寝と陽気な音楽。現代では、やや古風ともいえる宗教観。
呑気で楽天家ではあるけれど、家族を何より大切にする、暖かい人々。
歩きながら、俺は長い間のうちに、いつのまにか共有してしまったものを、数えてみる。
当然反発した事も多いし、未だに相容れないところもある(別の国なんだから当然なんだけど)。
ただ、数え上げたそれは、総じてそんなに悪いものではない。
少なくとも、俺個人はそう思った。
お向かいの家の犬に手を振って、木戸をくぐると、俺の足元にサッカーボールが転がってきた。
見れば、先ほどまでチュロスを作っていた、男の子二人がサッカーをしていたようだ。
やっぱ、こいつんちの子供だなー、とちょっと嬉しく思いながら、足元のボールを軽く蹴り返してやる。
お帰りなさい、という言葉に、おう、と返して、雑貨屋の包みを見せてやると、歓声が上がった。
ボールを片づけ出す二人に、ちゃんと手を洗ってから来いよー、と呼びかけて、俺は一足先に家へ入る。
玄関を入ってすぐのリビングでは、未来のベッラ達が、色鉛筆と画用紙で、何やらお絵かき中だ。とりあえず近くの部屋を覗くが、スペインの姿はない。
子供たちの笑い声と、人間の気配。
大きさこそ、昔暮らしていた王宮とは比べ物にならないけれど、この空気は懐かしい。
くだんの家主は、と廊下を進むと、向こうから、小さくスペインの声が聞こえた。
声の出所はキッチンの様で、よくよく耳を澄ますと、歌の様だ。最近の歌ではない、けれど俺は、聞いたことがある。
――古い子守唄だ。
その歌は、数百年前に、俺があいつから、よく聞いたものだ。当時としても、古い歌だったから、今では、すっかり廃れてしまっているだろう。
久しぶりに聞く歌を、もう少し聞いていたい気がして、音を立てないように、そっとキッチンを伺う。
スペインは、イネスを抱えて、歌いながら、あやしているようだった。窓越しの光で逆光になって、こちらに背を向けているあいつの顔は、良く見えない。
明るい窓からの光
五月の風とシナモンの匂い
窓の外から聞こえてくる、子供たちのはしゃぎ声
――ひどい眩暈がした気がした。
俺が見ている先のスペインは、こちらに気づかないまま、小さな声で歌い続ける。
賑やかな市場
迷子になるから、と繋がれた掌の感覚
オレンジとスパイス、微かに漂う火薬の匂い
この歌を聞いていた、百年以上前の記憶や、この家に帰るまでに考えていた、いろいろな事なんかが、頭の中に一気に押し寄せてくる。それと同時に、視界に映るスペインの輪郭が、滲んでぼやけた。
――本当に、今日は日が悪い。
このままだと、傍目には、お遣いから帰って、保護者(じゃないけど、全然)の姿を見て涙目。とかいう、いい歳して、めちゃくちゃ格好がつかない事になるので、俺は慌てて、目線を反らす。
壁紙は、張り替えるときに、ベルギーが好きだと言った、モスグリーンの唐草模様。子供用に、出してきたであろう手拭きには、オランダのところの、有名な絵本のウサギ。食器棚の隅の、小さなフレームの中には、弟が描いたであろう、俺んちの街並みのスケッチ。
ゆっくり深呼吸して、なんとか立て直したところで、タイミング良く、スペインがこちらを振り返った。
「お帰り。今ちょっと手が離せなくて、すまんな」
「や、良いけど」
視線を移すと、イネスはスペインの腕の中で、すっかり眠っているようだ。
起こしてしまわないよう、小声で会話をする。
「ちょっと前に、ぐずりはじめてなー、ようやっと静かになったとこやねん」
「そっか……って、あいつら全然手伝いになってねーな」
スペインの肩越しに見えるシンクには、まだ粉の付いたボウルや、鍋が水に浸かっている。
「ちっちゃい子なんてそんなもんやって」
ロマーノだって、そうやったよ。
「うっせー」
俺の抗議に、はははと笑うその顔は、大国の面影や、戦争の陰りは欠片も無く。どちらかと言えば、南イタリアの俺んちの裏に住んでる、世話焼きのマンマの顔で、俺はすっかり拍子抜けした。
「すまんなあ、せっかく今日は朝から、来てくれたのに」
家の近くの路地を歩きながら、ふいに俺の隣で、スペインは言った。
子供たちを各々の家に送り届けて、その帰り道。時刻はすっかり昼過ぎだ。
「別に、いつもの事だし」
「そか」
少し照れくさくて、明後日の方向を向いたら、微かな苦笑いと、それ以上に柔らかな短い返事が返ってきた。
たまたま、この日に休みが取れる事が分かって、ちょっと顔を見てやっても良いかと思って、気まぐれに来ただけだ。
(そう、今日ここに来たのは、偶然で、特別何かしたい訳じゃない、けど――)
ぐるぐると、俺が頭の中で考えていると、いつの間にか、隣から鼻歌が聞こえてきた。さっきキッチンで聞いた子守唄だ。
何百年ぶりかに聞く歌は、昔こいつの背中で聞いた時よりも、ずいぶん優しく、か細くなっている気がする。
――穏やかな、五月の日曜。
どこかの家の裏から、パエージャの香りが漂ってくる。きっと俺たちも、家に帰って遅めの昼食をとって、シエスタだ。
「ん?どしたん」
「やる、ちび達が使って、余った分」
出がけにポケットに突っ込んだ、それを思い出して、スペインの掌に押し付ける。
伊達に数百年以上、こいつと暮らしていた訳じゃない。
トマトと昼寝と陽気な音楽。
古風な宗教観と、呑気で大らかで、暖かい住人達。
「――おおきに」
掌の中を見たスペインは、それを太陽に透かして、馬鹿みたいに幸せそうな顔をして笑った。
「昼はもう無理やから、夕飯は?なんか食べ行く?」
「んー、俺が作ってやっても良いぞ。感謝しろー」
「あはは、ほんなら、俺も気合入れて手伝わなあかんな」
「なんだよ、それ」
五月の明るい青空に、スペインの指に絡められた、明るい赤いリボンが翻った。
何が面白いのか、笑い続けるスペインにつられて、俺も呆れながら笑う。どうせ今日は、普段ひねくれている子供が、ちょっと素直になっても、笑って許してもらえる日だ。
リボンに入っている飾り文字のプリントは、今日のための言葉。
『 Feliz día de las madres 』
穏やかな5月、第一日曜日、スペインの母の日。
本文中での『廃れてしまった歌』は架空の歌ですが
イメージは、カタルーニャ民謡「聖母の御子」
スペイン語も日本語も、歌詞がとても優しくて、可愛く穏やかな感じで好きです。