オケアノスは雲海の中を航行しているようだ。
窓の外に目を向ければ、僅かに月明かりを透かした青鈍色の雲が、深淵の様に広がっている。
「アヤカさん何か探し物ですか」
後ろからかけられた柔らかな声に、イリエは外の景色から目を離し、足を止めた。
ブリッジへ続く薄暗い連絡通路には、彼女以外の姿は見えない。しかし
「なんだか先程から艦内を回っているようですけど」
明るい、まだ少女と言っても良いような音声と共に、彼女の前に可愛らしい印象の女性の映像が投影される。
その姿に、イリエは先程まで少し不機嫌そうになっていた顔を緩めた。
「リチェルカ丁度良かった、クロシオを見ていないかしら」
夢でも膝を抱える君には私の舟を
本編18話から20話くらいまでのどこかの幕間
それは大きな探し物ですねぇ、と冗談なのか本気なのかよく分からないAIの返答に
そうね、と苦笑いを返してイリエは簡単に事情を説明する。
「もう少ししたら司令とミーティングを始める予定なのだけれど、ブリッジにも部屋の方にも居ないみたいで……入れ違いになったのかしら」
「ちょっと待っててください…ハヤトさんなら、この艦内に居ますよ」
そう言ってリチェルカは何かを考え込むように目線を上に向ける。
「場所は、ゼーガ格納庫の裏手、現在は使われていない区画です」
「どうしてそんな所に居るのかしら」
「案内しましょうか」
「ええ、お願い」
細い通路をいくつか抜けた一角。
空き倉庫といった印象の薄暗い部屋の中、目当ての人物は壁と窓との狭い隙間で、膝を抱えて目を閉じていた。
照明は灯されておらず、彼の隣には飲みかけのコーヒーが置かれている。この部屋まで息抜きに来て、そのまま眠ってしまったのだろう。
窓にもたれ掛り両膝を窮屈そうに胸元まで折ったその姿は、英国の探偵小説の挿絵を彷彿とさせた。
「こんな所で……器用ね」
半ば感心しながら、イリエはため息混じりに傍らの床に膝をついて、クロシオの顔を覗き込む。
ここの所忙しかったせいだろう、薄闇の中でも彼の目元に隈が浮かんでいるのが分かる。
「………」
「ハヤトさんここのところ、メンタル面の数値が不安定みたいで」
隣で、同じくクロシオの顔を覗き込んだリチェルカが言い添える。
「……そうでしょうね」
クロシオの、彼自身の上半身を抱えるようにして廻した腕の先ではスクールベストがきつく握られ、眠りが浅いのか夢を見ているのか、薄い瞼が時折震えているのが見て取れた。
「すぐに幻体に影響が出るほど深刻なレベルではないですが、やっぱりお疲れみたいです」
リチェルカの声を聞きながら、イリエは最近の状況を脳内で反芻する。
メインパイロット、キョウはリブート直後で何かと不安定。副司令であるミナトは色恋に足を取られそうで端で見ていて危なっかしく、シマとシズノに関しては、公にされていない単独行動も多く、口を挟めそうにない雰囲気すら感じる。それに加えて、先日の復元者の艦内侵入等々。
イレギュラーに次ぐイレギュラーで休む間も無い。
「戦場にいるのと変わらないものね」
呼吸に合わせて微かに上下する、彼の左肩に触れる。セレブラントとして出会ってから十数年以上経つというのに、触れる掌と肩の輪郭は未だ十代の幼さと温かさを保ったままだ。
そのまま寝つきの悪い子供にする様に、心音に近いリズムでその肩先をそっと叩いてやる。
思えば、出会った頃は屈託なく笑う顔が印象的だったが、ここ数年は皮肉めいた笑みを口の端に乗せている所しか思い出せない。
一分弱ほど続けたところでベストを握っていた彼の掌が緩められ、腕から緊張が解けてゆくのが伝わってきた。それを確認してイリエは立ち上がる。
「そろそろ時間ね」
オケアノスはいつの間にか雲を抜けたのだろう、月の光が部屋の中を青白く照らす。微かなモーター音と雲間から差し込む月光で、部屋の中はまるで深海の様相を帯びていた。
「リチェルカ、この部屋の空調をお願いできる」
「はい、了解しました」
幻体には本来、空調も何もあったものではないだろう。それでも自分達は、過去の戦場の記憶に苛まれ、現実にストレスを感じ、月の光の下で夢を見るのだ。
「皮肉なものね…」
「アヤカさん」
心配そうな顔をしたリチェルカに笑いかける
「彼はもう少し寝かせてあげて、ミーティングは私だけでも問題ないでしょう」
どうせ肝心な計画は、シマとシズノ中心に内々に進められているのだろうから。
声に出さずに付け加えた台詞は、イリエ自身思ってもないほど硬質だったが、あえて気付かない事にした。
「いきましょうか」
「はい」
扉が閉まる一瞬、振り返った部屋の中は、月光と雲影の波紋で満たされ
まるで、海底に沈んでしまった船の一室の様だとイリエは思った。
『夢でも膝を抱える君には私の舟を』
お題提供: 約30の嘘
イメージBGMは坂本真綾の『gravity』
名前の影響か、イリエとクロシオは深い水中から、水面を仰ぎ見るイメージがあります。
そうね、と苦笑いを返してイリエは簡単に事情を説明する。
「もう少ししたら司令とミーティングを始める予定なのだけれど、ブリッジにも部屋の方にも居ないみたいで……入れ違いになったのかしら」
「ちょっと待っててください…ハヤトさんなら、この艦内に居ますよ」
そう言ってリチェルカは何かを考え込むように目線を上に向ける。
「場所は、ゼーガ格納庫の裏手、現在は使われていない区画です」
「どうしてそんな所に居るのかしら」
「案内しましょうか」
「ええ、お願い」
細い通路をいくつか抜けた一角。
空き倉庫といった印象の薄暗い部屋の中、目当ての人物は壁と窓との狭い隙間で、膝を抱えて目を閉じていた。
照明は灯されておらず、彼の隣には飲みかけのコーヒーが置かれている。この部屋まで息抜きに来て、そのまま眠ってしまったのだろう。
窓にもたれ掛り両膝を窮屈そうに胸元まで折ったその姿は、英国の探偵小説の挿絵を彷彿とさせた。
「こんな所で……器用ね」
半ば感心しながら、イリエはため息混じりに傍らの床に膝をついて、クロシオの顔を覗き込む。
ここの所忙しかったせいだろう、薄闇の中でも彼の目元に隈が浮かんでいるのが分かる。
「………」
「ハヤトさんここのところ、メンタル面の数値が不安定みたいで」
隣で、同じくクロシオの顔を覗き込んだリチェルカが言い添える。
「……そうでしょうね」
クロシオの、彼自身の上半身を抱えるようにして廻した腕の先ではスクールベストがきつく握られ、眠りが浅いのか夢を見ているのか、薄い瞼が時折震えているのが見て取れた。
「すぐに幻体に影響が出るほど深刻なレベルではないですが、やっぱりお疲れみたいです」
リチェルカの声を聞きながら、イリエは最近の状況を脳内で反芻する。
メインパイロット、キョウはリブート直後で何かと不安定。副司令であるミナトは色恋に足を取られそうで端で見ていて危なっかしく、シマとシズノに関しては、公にされていない単独行動も多く、口を挟めそうにない雰囲気すら感じる。それに加えて、先日の復元者の艦内侵入等々。
イレギュラーに次ぐイレギュラーで休む間も無い。
「戦場にいるのと変わらないものね」
呼吸に合わせて微かに上下する、彼の左肩に触れる。セレブラントとして出会ってから十数年以上経つというのに、触れる掌と肩の輪郭は未だ十代の幼さと温かさを保ったままだ。
そのまま寝つきの悪い子供にする様に、心音に近いリズムでその肩先をそっと叩いてやる。
思えば、出会った頃は屈託なく笑う顔が印象的だったが、ここ数年は皮肉めいた笑みを口の端に乗せている所しか思い出せない。
一分弱ほど続けたところでベストを握っていた彼の掌が緩められ、腕から緊張が解けてゆくのが伝わってきた。それを確認してイリエは立ち上がる。
「そろそろ時間ね」
オケアノスはいつの間にか雲を抜けたのだろう、月の光が部屋の中を青白く照らす。微かなモーター音と雲間から差し込む月光で、部屋の中はまるで深海の様相を帯びていた。
「リチェルカ、この部屋の空調をお願いできる」
「はい、了解しました」
幻体には本来、空調も何もあったものではないだろう。それでも自分達は、過去の戦場の記憶に苛まれ、現実にストレスを感じ、月の光の下で夢を見るのだ。
「皮肉なものね…」
「アヤカさん」
心配そうな顔をしたリチェルカに笑いかける
「彼はもう少し寝かせてあげて、ミーティングは私だけでも問題ないでしょう」
どうせ肝心な計画は、シマとシズノ中心に内々に進められているのだろうから。
声に出さずに付け加えた台詞は、イリエ自身思ってもないほど硬質だったが、あえて気付かない事にした。
「いきましょうか」
「はい」
扉が閉まる一瞬、振り返った部屋の中は、月光と雲影の波紋で満たされ
まるで、海底に沈んでしまった船の一室の様だとイリエは思った。
『夢でも膝を抱える君には私の舟を』
お題提供: 約30の嘘
イメージBGMは坂本真綾の『gravity』
名前の影響か、イリエとクロシオは深い水中から、水面を仰ぎ見るイメージがあります。