「――凄いわね」
水族館の短く暗い廊下を抜けた先。
次の展示室に入るとシズノは誰に言うともなく小さく声をあげた。
 足を踏み入れたそこは、映画館さながらに床から天井にかけて、大きな水槽が壁一面にスクリーンの様に設えられ、そのスクリーン代わりのガラスの向こう、で大小の魚達が悠然と泳いでいた。手前の解説パネルや、室内にそれこそ映画館のように段状に並ぶ長椅子を見るに、この部屋は水族館のメイン展示の様だ。
 いつもならこの展示室を含め、水族館はさぞ賑わっているのだろうが、数時間前に発生したサーバーへのガルズオルムの侵入とその復旧のため、現在一般の幻体の行動は制限されている。そのため彼女が居る、この舞浜サーバーにある水族館でも、館内に居るのはセレブラントであるシズノと、一緒に来ているもう一人だけだ。
シズノは大きな水槽を眺めながら、ゆっくりと展示室の中央まで進む。水槽の水影を映すクッション材の床は彼女の足音を消して、まるで本当に海底にいるような気分にさせた。

手前の長椅子腰掛けて一息ついたところでシズノ、と声をかけられた。
見ればイリエが両手に小さなカップを持って『順路』と書いてある展示室の出口から入ってくる。
しばらく一緒に館内を廻っていた彼女は、どうやら少し先まで行って戻って来たらしい。
「甘いのは大丈夫だった?」
「ええ」
「良かった」
はい、と差し出されたのは水族館のイメージキャラクターが描かれた紙のカップ。その中の淡いミントグリーンのアイスには、ヒトデを模したのか星形のクッキーが添えられていた。イリエの手の中に残ったカップには、こちらも淡いブルーハワイ色のアイスとクッキー。
「少し先の売店で売ってたわ。本当は向こうのイートインコーナーで食べるみたいなんだけど…」
今日は私達二人しかいないから特別ね。 
少し笑って言いながら、イリエは一人分の空間を空けてシズノの右隣に座る。
「ありがとう」
受け取ったアイスを口に入れると、メロンフレーバーとやんわりとした甘さが広がった。
 しばらく二人並んで無言で水槽の魚を眺める。
同じ舞浜サーバー所属のセレブラントという立場だったが、二人だけでプライベートな時間を過ごすのはこれがほぼ初めて、でお互いどうして良いのか距離を測りかねている。シズノとイリエの間、一人分空いたその空席がそれを物語っていた。


「…ところで、どうして水族館なのか聞いても良い?」
シズノと同じように、魚を眺めながら無言でアイスを口に運んでいたイリエが、遠慮がちに尋ねる。
言いたくなければ別に構わないんだけど。という彼女に、むしろ会話の糸口を見つけて少し安堵しながら、たいした理由じゃないの。とシズノは笑って返す
「舞浜に降りたら一度来てみたいと思っていたのよ」
キョウからよく話を聞いていたから。
その言葉に隣のイリエが複雑そうな目をしたのを感じて、シズノは視線を目の前の水槽に移す。
水槽の床には岩と白砂が敷かれ、海藻とヒトデが花のように色を散らし、本来無機質な箱の中を桃源郷のように彩っている。
「あと・・・デートの定番コースってクラスの女の子が見せてくれた雑誌に載って・・・・・・って、えっ、何っ」
何事かと見れば、大変めずらしい事に、隣のイリエが口元を押さえて吹き出していた。
何か自分は変な事を言ったのだろうかとうろたえるシズノに、くっくっと肩を震わせながらイリエが笑う。
「…司令もね、そんな事言ってたわ」
「シマが…」
「やっぱり女子を連れて行くならこういう所か?って。生徒会の会議の前に女の子達が見てた雑誌を眺めてたから」
数か月シマと同じように学生として舞浜サーバーで過ごしたシズノだが、彼女が憶えているのはオケアノス司令としての、時に冷徹ともいえる顔でばかりで、舞浜南高校の普通の高校生としてのシマは、あまりイメージができなかった。
「だから、ちょっと言ってみたの」
「何を?」
悪戯そうな顔をして笑うイリエに、彼女もこんな顔をするのね。と少し意外に思いながらシズノが続きを促すと、イリエはさらに笑う。
「副会長なら会長が誘えば何処だって喜んでくれますよ。って」
「それで、どうしてたの?彼」
「ちょっと動揺してたわ。顔には出さなかったけど」
「それは・・・ちょっと見てみたいわね」
「でしょう、その日の生徒会長は妙にしゃきっとしてたわね。どこかの戦艦の司令みたいに」
「まあ」
きっと経緯を知らない周りの一般生徒や、ミナトは相当戸惑っただろう。その様子はシズノにも想像できて、隣でくすくすと笑うイリエにつられてつい笑ってしまう。
先ほどまでの、他人行儀でどこか緊張していた空気が緩んだ。


「声を掛けてくれたのは嬉しいけれど、一緒に来るのが私で良かった?」
先ほどの笑いがおさまって一息ついたイリエが、気遣うようにこちらを見やる。
「ええ、私一人じゃ行く所もなかったから」
「彼の所には行かなくて良いの?」
あと数分後には、セレブラム初のミッション――データのみになってしまった人間幻体が、再び肉体を持った現実世界の人間に戻る――が開始される予定だ。
本来ならばミッション遂行者であるキョウとシズノは、きちんと事前確認や打ち合わせをしておくべきなのだが
「大体の段取りは貴女やクロシオがつけてくれたし…流石に、残り少ない恋人達の逢瀬を邪魔するほど、私は無粋じゃないわ」
言いながら、苦笑いを浮かべたシズノが視線を落とした手元では、カップのアイスが溶けかかっていた。星型のクッキーは乳白色のアイスの海に沈んでふやけてしまっている。
 イリエはその様子をしばらく横目で眺めてから、視線を水槽に移して口を開く。
「…小さい頃、人魚姫は隣国のお姫様を殺さなかったのかしらって思ったの」
「…意外と怖いこと考えるのね」
「あら、だって婚約者が居なくなったら、人魚は王子様と結婚できてハッピーエンドよ」
大きな魚群の影が二人の前をゆっくりと通り過ぎた。元々暗い展示室がさらに暗くなる。少し離れて座る二人のお互いの表情は見えない。
「でも、多分人魚は王子様に恋をしていたけど、それ以上に好きだったのではないかしら……人間が」
「…お話の中の人魚はそうだったかしれないけど、 私にはそんなに高潔な心持ちは持っていないわ」
「・・・・・・」
「やっぱり私が好きだったのは彼じゃなかったのよ…少なくとも前の彼は、もっと物静かで知的で、ちょっと影があって、そこがまた乙女心に響くって言うか・・・」
「…付き合ってた恋人の事をきれいさっぱり忘れたあげく、女の子二人の間で煮え切らない、インテリ熱血馬鹿野郎じゃなかった。と」
「流石にそこまでは…っていうか貴女の中の彼はそんな酷い印象だったの?」
「冗談よ。・・・・・まぁ多少は思うところもあったけど」
「聞こえてるわよイリエ・・・あのひねくれ頭の相方やってる人に言われたくない」
「・・・私と彼はちょっとつきあいが長いだけよ。シズノ、今の発言もなかなか酷くない?」

あれでも一応私が面倒みてた元ガンナーなんだけど。
それを言うならキョウだって、しかも現役よ。

むう、と一人分空けた椅子の左右でにらみ合って、
「……っつ」
「……ふふ」
どちらからともなく笑う。
「お互い手の掛かる相方をもったわね、シズノ」
「本当ね」
通り過ぎて行った魚群を追うように、たぷんと音を立てて一際大きな魚が明るく照らされた水面に向かって泳いでいく。
「…ごめんなさいね、私のしょうもない感傷につきあわせちゃって」
「私も、いつか暇ができたら来ようと思っていたんだけど、なかなか機会が無くて来られなかったから…今日来られて良かったわ、ありがとう」
「こちらこそ」
その答えを待っていたかのように、何処からか小鳥の囀る様な微かなアラーム音がホールに響いた。


「そろそろ時間ね」
イリエが携帯の時計を確認しながら呟く。
「この後は・・・どうなるかしら」
「どうなるかはまだ分からないわ」
見上げた展示室の高い天井は暗く、水槽からの光は届かない。
「手伝えることがあったら呼んで、サーバー側からだけど私達で出来るかぎりの事はするから」
「ありがとう、心強いわ」
差し出されたイリエの手をシズノは握り返す。
オケアノスでも舞浜でも一緒にいたのに、きちんと目を合わせて話したのは初めてな気がした。特にここ最近はお互いごたごたしていて、きちんと顔も合わせていなかった。
向かい合うイリエもそう感じたのだろう、シズノの目を見て少し照れたような苦笑を浮かべる。
「なんだか初めてちゃんと目を合わせた気がするわね」
「ええ」
ふふ、とお互い少し気恥かしい雰囲気で笑いあって、握り合っていた手をゆっくり解く。
「イリエ、ひとつ頼みがあるんだけど」
「何かしら」
「副司令、ミナトについていてあげて・・・突然一人で取り残されるのはやっぱり辛いわ」
「分かった、心がけておくわ。・・・でも存外彼女は強いわよ。あの司令が選んだオケアノスの副司令ですもの」
「そうだったわね」
気丈にオケアノスの司令代理を務めたミナトを思い出す。彼女や目の前にいるイリエが居るなら、こちら側もきっと大丈夫だろう。


「残り、片づけておくわ」
「ありがとう美味しかったわ」
差し出されたイリエ手に空のカップを渡す。イリエの方のカップも空になっていて、どうやらお互いきっちり完食してしまったらしい。
 それじゃあ、と立ち上がったシズノの背中にイリエが声をかけた。
「最近の人魚姫は、泡にならずにハッピーエンドになる結末もあるらしいわよ」
口調こそ穏やかだったが、こちらに向けた視線は真剣で、前線に立っていた頃の気迫を感じる。
「…そうね、泡にならずに、熱血インテリ馬鹿な王子様を無事に連れ帰ってから考えてみるわ」
彼女の視線に含まれた「必ず戻ってくるように」という言葉に「ありがとう」とこちらも微笑みながら目で返事をして、シズノは次に向かうべき舞浜南高校に意識を向ける。

――人魚姫が王子様を無事に連れ帰って、そしてあどけない笑顔が可愛いらしい隣の国の姫と、美味しいお茶を飲む。
そんな結末もそう悪くないだろう。

そう思いながら閉じるシズノの瞼裏に、暖かな夏の日差しが
海底から仰ぐ水面のように、眩しく揺らいだ。



『人魚の冷えた恋』
お題提供:約30の嘘




タイトル写真は葛西臨海水族館で撮影したもの。

15年1月のオフ会に参加した際に聞かせていただいた
「先輩は人魚姫的モチーフがあるんじゃないか」と言う話と
26話で仕方ないわね、と助けに入ったり、シズノが人間になることを嬉しそうな顔で聞くイリエに
本編でほとんど会話もなく、終盤は微妙な雰囲気すらあったのに何処でそんなに仲良しになったのか
というところを妄想補完。

イリエさんと先輩がお互いの相方を盛大にdisってますが、あくまでも会話の流れの上での冗談です。
キョウもクロシオも、あのちょっと駄目なところがあって、本編で悩む姿があるからこそ、答えを出した姿が格好良く、ゼーガ本編が何度見ても面白いものになっている要素のひとつだと思います。