連ねる詞は深くしてなお嵐にも似て 1
「こちらは終わりました」
横光は、川端と共に集めた本をまとめて、図書館のカウンターに乗せた。
「横光さんありがとう、助かるよ。川端さんも」
「いえ」
カウンターの中で事務処理をしていた徳田が、横光の置いた本を受け取り、返却処理をしていく。
「そうだ、感謝しろよ、秋声」
「島田君、きみはほとんど見てただけでしょ。これで全部?」
「はい、今日の分はこれで終わりかと」
同じくカウンター内に入っていた島田と、その面倒をみる徳田との親子のようなやりとりに、横光は笑い出しそうになる口元をこらえて、返事をする。隣で川端も、こくりと頷いた。
大きな嵐が来るらしい。
昼の談話室では、早めの備えを、とニュースキャスターが繰り返していた。
予報では掠めるだけ、という話だったが、それでも備えは必要だろう、と今日の図書館は早終いとなった。通常業務の職員達は総出で、窓の目張りや植木の片付けに追われている。勿論、日頃図書館で生活している身として、文豪達も例外はなく、手の空いている者はそれぞれに図書館各所に散って、片付けや修繕などの手伝いに勤しんでいる。
そして現在、閑散とした表の図書館で、残りの業務を手伝っているのが、徳田と島田、川端と横光の四名だ。
「――風が出てきたね」
ひときわ大きな風が吹いて、外の植木が音を立てる。それを聞いた徳田は、心配そうに眉を寄せて視線を窓の方に向けた。まだ陽は出ているし、雨雲を呼ぶような雲は見えないが、次第に強まる風の強さが、これから訪れる嵐の激しさを予感させている。
「なんだ、怖いのか?秋声」
「違うよ」
茶化すような島田の声を、呆れた口調でいさめながら、徳田は返却処理した本をカートに乗せていく。古株の彼は、いままで何度か表の図書館業務も手伝っているらしく、手際が良い。
「昼に宮沢くんと新見くんがずいぶん心配していたからね」
「私も聞きました、窓の軒にツバメの巣があるとか」
カートに本を乗せるのを手伝いながら、川端が補足を入れる。
「そうか、ありがとう川端さん。これを片付けたら、少し見ておいた方が良いね」
「はい」
横光は、同じくカートに本を乗せながら、穏やかに会話を交わす二人を眺めた。
あまり感情を表に出さない、と言われる友人の言葉の端から、嬉しそうな気配が伝わってくる。尊敬する作家の手伝いができることや、共通の話題がある事に、気分が浮き立っているのだろう。世界の川端とさえ言われる友人の、まるで少女のような微笑ましい様子に、思わず口元が緩む。
「さて、後はこの本を片付けて、僕たちの仕事は終了かな」
よしょ、とカウンターを出て、処理済みの本が積まれたカートを並べる徳田に、横光はふと思いついて、声をかけた。
「良ければ、残りは手前と島田さんで行きましょうか?」
「良いのかい」
古参の徳田と、やや新参の部類に入る川端では、意識して時間をとらない限り、ゆっくりと話す機会も少ない。ならば、横光が友人として、少しばかり機会を増やすお節介をしても、罪にはならないだろう。
「ええ、島田さんはまだ日が浅いですから、片付けついでに案内します」
「えっ、俺もう帰りたいんだけど」
「川端さんもそれで良いかな」
「はい、かまいません」
「ごめんね、ありがとう。よろしくたのむよ」
「おい、俺の意見は無視するのか」
「はい。川端と徳田先生にはツバメの確認をお願いします」
詳しい話を聞いたのは、二人ですから。と横光が言うと「そうだね」という徳田の返事と「わかりました」と頷く川端の了解が帰ってくる。
徳田の「島田君、横光さんに迷惑をかけちゃ駄目だよ」という声と、川端の、「気をつけて下さい」という声をもらって、横光と島田は、図書館のカウンターを後にした。
「秋声のやつ、俺様のことを侮りやがって」
「すみません、島田さんはこちらに来られたばかりですから」
本を積んだカートを押しながら、広い図書館を巡る。帰宅できる職員はほとんど帰ってしまい、残りの職員達も出払っているので、館内は海底に取り残されたように静かだ。
うーん、と子供のように不満そうな顔をする島田に、横光は笑いかける。
「まあ、島田さんほどの方が一緒なら、すぐに終わるでしょう」
「――まあな、天才たる俺にかかれば、こんな雑用たやすいことだ」
「ええ、助かります」
機嫌を取り戻した島田は「秋声にも、もっと感謝してもらわないとな」と笑う。一周回って素直な彼に、横光は思わず笑みを漏らした。
この死者の魂を蘇らせる――正確にはもう少し違うようだが。思議な図書館では、生年などは考慮されないらしく、現れる者の見た目の年代も、同年代であっても異なることがある。島田の歳は生前、川端と同じく横光の一つ下だったが、二十代程の容姿となった自分たちに対し、現在のここに居る島田は十代後半くらいの見た目だ。おそらく中身の方も、やや老成してしまっている自分や川端に比べ、年若いだろう。
ついでに言うなら島田の言動には、己にも少しばかり覚えがあるので、なんとも言えず微笑ましい気分になる。
「何だよ」
笑っているのに気付いたのか、じろりとこちらを見る島田に、横光は慌手を振った。
「ああ、いえ、少し嬉しかったので」
「はあ?」
「駆け出しの頃、貴方の本も読みました」
島田をやや強引に連れ出したのは、もちろん川端に徳田と話す機会を与えたい、という理由だったが、島田と話してみたかった、というのも、また事実だ。
横光が菊池に師事し、川端に出会った頃には、彼の小説はすでに世間で絶大な評価と反響を巻き起こしていた。
「そうか、良かっただろう」
「ええ」
本を抱え、明後日の方を向きながら「当然だ」と照れくさそうにうれしそうに笑う横顔は、まだ少年のそれだ。その島田に、横光はどこか己に似たものを感じている。
彼の来し方は聞いていたが、横光がもし、彼と同じように、同じ年頃に自分の書いた小説が評価されたならば、同じ道を辿ったかもしれない。
「――島田さんは、こちらでなにか書く予定はありますか」
「ふん、俺様にもいろいろあってな、考えてる。お前は書いてないのか?」
「手前もまだ思案中です」
横光が応えると、島田は彼からから受け取った本を棚へ戻しながら、ふうん、と気のない返事をする。
「よければ、また話を伺ってもよろしいでしょうか」
「・・・・・・考えといてやる」
あっ、ありがたく思えよ、と慌てて付け足される台詞に、やはり自分の十代の頃と似たものを感じて、横光は思わず吹き出した。
「おい、笑うな。次は?どっちだ?」
「ああ、すみません。こちらです、残りは専門書と持ち出し禁止の棚ですから――」
島田がカートを押し、横光は笑いながらそれを誘導する。
人気の無くなったフロアには、傾きかけた陽の光と、窓を揺らす風の音だけが残っていた。
「へえ、こんな所もあったんだな」
「ええ、一般の来館者はあまり来ないそうですが」
思わず、というふうに声を上げ、部屋の中央に走り出た島田に、横光は返事を返した。
広い図書館を、ぐるりと回ったここが、折り返し地点。軽くなったカートを途中で片付けて、手元にある本は、島田と横光が手に持つ数冊を残すのみだ。
吹き抜けのフロアに、回廊のような中二階が配されたその部屋は、この図書館で一番古い部屋だという。入り口正面には、二階へ上るための広い階段が設えられ、登りきった最上段の正面には、広く大きな窓が入っている。
「ここだけ絨毯敷いてないんだな」
「古い建物の階段を、そのまま移築したらしいです」
「なかなか良いセンスだな」
「はい」
上機嫌な島田は、軽快な足取りで階段を上り、横光もそれについてゆっくりと段に足を掛ける。
図書館にある多くの窓には、ステンドグラスの装飾が施されているが、この窓もその一つだ。今もガラスを通した夕刻の陽の光が、赤みを帯びた濃い栗色の階段に、緑や黄色の彩りを施している。
「なんか、凄いな」
「ええ、手前もこの時間に見るのは初めてです」
足下から天井近くまである大窓は、四隅が花を模った色ガラスで飾られ、その中央からは茜色の夕空と、細やかに手入れされた図書館の裏庭が見下ろせた。
ただ、平素なら美しいそれは、嵐の前の黄昏を、さらに赤くして、どこかこの世ならざる、不吉な物のように映している。
――およそ輪廻は車の輪の如く 六趣四生を出でやらず
不意に、耳の奥で声が聞こえた気がして、横光は顔を上げた。
「どうした?」
「いま、声が聞こえた気が」
「風の音じゃないのか、外の奴らの声とか・・・・・・深淵からの問いかけがお前にも」
「いえ、最後のそれは無いと思いますが」
確かに、嵐の前兆の風に、図書館の庭木がざわめく音が聞こえる。
――人間の不定芭蕉泡沫の世の習 昨日の花は今日の夢と 驚かぬこそ愚なれ
ふいに、差し込むように胃が痛んだ。
「島田さん、そろそろ」
戻りましょう、と続ける言葉に、島田の声が重なる。
「そういえば、おまえの本も読んだよ」
「そうですか」
有無を言わせぬ、その強い口調に横光はとりあえず頷く。
島田はそのまま階段を二、三段降りる。
「俺が金策で走り回ってる横で、本屋に並んでたぜ、神様」
「・・・・・・手前は」
「でも、お前もあいつらに振り回されたんだろ、こっちに来てから聞いた」
お互い様だな、と段上を見上げ笑いかける顔は、影になってよく見えない。
――身の憂きに人の恨のなほ添ひて 忘れもやらぬ我が思い
窓越しの赤い光と、階段に出来る濃い陰影は、遠近感を狂わせる。
窓の外で唸る木々の音が、遠くで騒ぐような群衆のざわめきと重なる。喉奥からせり上がるのは、言葉か、胃液かそれとも別の何かだろうか。
「島田さん」
「そうだろ、あいつらが、あんなふうに足を引っ張らなければ・・・・・・」
両脇に付いた手摺りの影は、まるで牢の格子のように島田の足下に伸びている。
突然の島田の言動、己の胃痛。さすがに妙だ、と横光は眉を寄せる。
――今の恨は有りし報い 嗔恚の炎は身を焦がす
「俺は、天才で、正気で、ちゃんと」
「戻りましょう」
横光の差し出した手を、島田は怯えたように払いのけ、さらに数歩後退さった。おそらく島田は混乱しているのだろう。浸食、という単語が脳裏をよぎる。
こんな事態は経験したことはない。けれど、ここは死人を蘇らせる図書館である。何が起こっても不思議はない。
「俺は、お前も――」
「島田さんっ」
ひゅう、と鳴った喉はどちらのものだっただろうか。
抱えた本が散乱する音と共に、島田の足が、踏み板を掴み損ねて、目の前から消える。とっさにのばした横光の手は空を掴んだ。そのままバランスを崩した彼の躰は、島田の後を追うように紅く染まる階段を滑り落ちる。
まずい、と体勢を立て直そうとするが、その前に強かに脇腹を打ち付けた。
横光の耳の奥で、密やかに嘲笑するような声がする。
――おもひ知らずや
眉を寄せる前に右足が段差にぶつかり、鈍い音がした。下手に動こうとすれば、どこか痛めるだろう。
そう、世相に流され、手のひらを返した文壇や、大衆に対する反論や抵抗は、余計に彼らに敵愾心を煽るだけだ。
――思ひ知れ 恨めしの心や。
多少打ち所が悪くても、なんとかなるだろう、と心を決める。
それでも、作家としてある以上、自分の文を読む人間がある以上、己は書かねばならない。
――あら恨めしの心や。
次に来るであろう痛みに備え、身を固くする。
――枕に立てる破車 うち乗せ隠れ行かうよう