連ねる詞は深くしてなお嵐にも似て 2
横光の覚悟した痛みが訪れることはなかった。
かわりに、右の二の腕がねじ切られる様に痛い。
横光が顔を上げると、川端が、元々白い顔をさらに蒼白にしてこちらを見ていた。そのまま視線をたどれば、彼の左手が爪の食い込むほど強く己の右腕を掴んでいる。
反対の川端の右手は、階段の手摺りを握りこんでいて、どうやらこの手のおかげで、ひどい転がり方をすることがなかったのだと分かった。
そのまま川端に引き上げられるようにして、横光はなんとか階段の上に座り込む。よかった、と息を吐いたところで、よくありません、と珍しく眦をつり上げた盟友の声が返ってきた。
「どうして、貴方がたはこんなところに」
「いや、島田さんを案内していたんだが、少しバランスを崩して」
本当ですか、という目の前の友人はすっかり息が上がっていて、どちらかと言えば非力な彼に無理をさせたと、申し訳なく思う。それと同時に、いささか毒気を抜かれて、は、と息を吐いた。
見上げてみれば、横光が落ちた距離はそう長くもない。あれほど禍々しく感じた黄昏は、ただ階段を照らす、ほのかな茜色の光だ。
「とりあえず、戻りましょう」
「ああ」
立ち上がろうとする横光の肩を川端が支える。この手があればこそ、自分は作家として、人間として正気を保て散られたのかもしれない。そう思って、横光はもう一度息を吐いた。
階下を見れば、島田も徳田に受け止められている。徳田に抱えられ、階段下のフロアに座り込んではいるが、意識はあるようだ。
川端の方を借り、階段を下まで降りた横光は、座り込んだ島田と、それを抱える徳田の前に屈み込む。
「島田さん、先ほどの話ですが」
「な、何だ」
島田の瞳が、まだ少し怯えたように揺れながらも、横光の姿を捉える。
自分たちが辿った運命をもう一度やり直すことはできない。しかし幸いにして、この図書館という不可思議な場所にもう一度生を授かった。この場に居る全員が、一度は完全に捨てた身である。ならば、まだ十分に浮かぶ瀬はあるだろう。
「手前は、今こうして貴方に会えて嬉しいと思っています」
座り込んだ島田に向かって、手を差し出す。
「もう一度、この場所で、貴方が書く文章を読みたいです」
伸ばした手は、振り払われることはなかった。
「・・・・・・俺はまだまだ書けるんだぜ」
島田は横光の手を取りながら、ふん、と鼻を鳴らして不敵に笑う。応えるように、横光も口元を和らげる。
「ええ、手前も書きましょう」
横光の手には島田のかすかな震えが伝わるが、彼も少しは調子が戻ったようだ。
「いいのか、俺様が本気で書いたら、ここにいるお前らなんて三日も持たずに、霞んじまうぞ」
「島田君」
島田の不敵な返事に、隣の徳田が諫めるように声を上げる。横光は笑って島田を引き上げた。
「望むところです」
「利一」
今度は横光の隣からも声が上がる。
階段に散らばった本のひとつが、ぱたり、と落ちる音がした。
近づく嵐は速度を上げたらしい。今夜中に、この図書館のある街を通るだろう、と談話室のラジオが夜半のニュースが報じていた。
強い風にあおられて、窓枠を揺らす音がする。深夜の図書館の奥の一角。ステンドグラスの装飾を施した大窓と古く年季が入った階段。島田と横光が足を踏み外した、と訴えた場所だ。その階段の一番下で川端は足を止めた。
夕刻に、燃えるような赤く不吉な色をしていた階段は、今は月の光を通して幽玄な紫に変わっていた。窓際に植えられ木々の落とす影が、黒々とした獣のように蹲っている。雨はまだ降っていないが、降り出すのも時間の問題だろう。
川端はしばらくその様子を眺め、ふ、と息をついた。
華やかな成功と揺るぎない名声――
多くの人間は、他人を祭り上げ、身勝手に期待と羨望、嫉妬をぶつけ、けれど些細なきっかけで、簡単に引きずり下ろし、次の流行へと興味を移す。高みから落とされた人間のその後を顧みることはない。
それ自体は構わないし、そんな人間の心の営みは微笑ましく、愛しいものだ。彼もまた、そんな市井の人々を感謝と愛着を持って、文字に記した作家の一人である。
「――とはいえ、これはいけませんね」
言って、静かに右手に添えた、古びた本を掲げる。先だって、島田と横光が階段に取り落とした中に混じっていた一つだ。
和綴じのその本は、墨のように深く暗い浸食が大半を覆い、かろうじて表紙にある文字から、謡曲の写本であろうことが窺える。
「先ほど私の友人の足を引っ張ったのは、あなた方でしょう」
生きている人間の世評によるものならば、川端とて手は出せないが、彼方者の妄執となれば話は別だ。
彼に――いや彼らに、生前のような、諦観と銷魂の色をした瞳をさせる事など許さない。
川端は、一歩階段に近づく。
錬金術師曰く、著作が武器になるという話だが、それならば、その文章を綴った己自身の来し方行く末が力になるという事だろう。なれば
「私には、煩わしく思うこともあった大仰な肩書ですが・・・・・・まあ、ここに至っては有り難い、というべきなのでしょうね」
――より人は今ぞ寄りくる長浜の 芦毛の駒に手綱ゆりかけ
「私は川端康成です」
川端は口元に笑みを浮かべた。
――三つの車にのりの道 火宅の門をや出でぬらん。
広く大きな階段。その一段に足を掛ける。
「世界の栄光と孤独の影を恐れる者は、道を空けなさい」
――浮世は牛の小車の 廻るや報なるらん
ひときわ強い風が吹いて、段上に落ちていた暗い影が、ざわりと蠢いた。
「――残念だな」
「何がです?」
窓越しに抜けるような青空を見て、横光は少し笑ってつぶやいた。隣の川端が首をかしげる。
激しい雨風を伴って丸一日続いた大きな嵐は、置き土産として、その後数日の快晴を置いていった。今も図書館の廊下に掛かる窓からは、曇りのない青空が覗いている。
「あの窓から見る景色は綺麗だったのだ、川端にも見せたかったのだが」
横光と島田が眺めたあの窓は、その夜のうちに、嵐の風によって割れてしまったらしい。現在はブルーシートが掛けられている。
幸い、物的な被害という被害はその窓だけで、一番の負傷者は、前日うっかり足を踏み外して、軽い打ち身と打撲をした、島田と横光くらいのものだ。
「片付けが終わったら、そのまま改装してしまうそうだ」
大分古かったから、仕方ないか。と苦笑いする横光の隣で、川端がわざとらしくため息をつく。
「私はむしろ安心しました」
「何がだ?」
「景色に見ほれた貴方が、度々階段から落ちるような事があれば、私の身が持ちません」
「一度足を踏み外しただけで、その言われようか」
「菊池先生も心配していましたよ」
「む、そうか気をつけよう」
横光としても、師匠や友人に無駄に心配を掛けるのは本意ではない。生真面目に頷いた横光に、川端は薄く微笑んだ。
「ええ。それより利一は今から執筆ですか」
「いや、島田さんが新作の草稿を作っているというので、また話を聞きに行こうと思っている」
「先日も彼の話を聞きに行っていましたね」
「ああ、彼の話は少し難解で独特だが、なかなか魅力的だ」
「私も行きます」
「徳田先生は来ないと思うが・・・・・・」
「行きます」
「――分かった」
珍しく、川端の視線に気圧される横光は、川端に腕を取られるまま、図書館の廊下を歩く。その様子に、行き会う文豪や図書館の職員達が、相変わらず二人は仲が良いと笑いながら通り過ぎてゆく。
「――およそ輪廻は車の輪の如く、六趣四生を出でやらず・・・・・・」
「葵上、ですか」
「ああ、最近少し耳に入ったので・・・・・・これに関しては、川端の方が詳しいだろうな」
「そんなこともありませんよ」
「手前らは未だ愚かだが、花の儚さを知った身なれば、精進せねばならないな」
「ええ、そうですね」
今日も朝から良い天気で、通常業務の図書館は賑わっている。
窓の外をつい、とツバメが横切って、廊下を歩く二人を追い抜いていった。
『連ねる詞は深くしてなお嵐にも似て』
お題提供:ハチノス
文中に挟まっているのは、謡曲「葵上」
普段は、タイミングが良かっただけですよ、という顔をしてるけど
ここぞというときに、世界の川端の肩書きを持ってくる川端さんとか、格好良くないですか。っていう話
あと川端さんは一人だけ、ちょと会敵台詞が他の人と違って異質な感じがしてるな、と思って。
当然なんだけどこの三人、作家としての全盛期が丁度バトンタッチする感じになっていて
なんかこう、くるものがあります。
一人の本が世間に受けて大流行する横で、もう一人が世間から忘れられていくという・・・
落ちる方も、上る方もなかなか苦しいだろうな、と思います。