さよなら わたしは 春になります
――願わくは、訪れる春の、先触れであれるように。
通りがかった食堂の、開いた扉。その向こうに、見慣れた首巻きを見かけ、菊池は足を止めた。
時刻は、午後の三時を数分過ぎた昼下がり。窓から差し込む、春先の陽光は穏やかだ。
半分ほど開いた、入り口の扉。人気の無い食堂の窓際、卓の上に積み上げた本の隙間に、寒色の首巻きを付けた後ろ姿が、一人ぽつねんと覗いている。
十を過ぎない幼児でもないので――少々浮世離れした危なっかしい弟子達は、菊池にとって、子供のようなものだが。そのまま通り過ぎても良かったのだが、その首巻きの色が寒々しく、妙に気に掛かって、談話室に向かおうとしていた足を方向転換させ、食堂へ向けた。
「新作の下調べか?」
声を掛けながら、向かいの椅子に座る。
「菊池さん」
誰かが来るとは思っていなかったのだろう。寒色の首巻きを掛け、右目を菫色の前髪で覆った弟子は、はた、と顔を上げて、琥珀の瞳をぱちぱちとしばたかせる。そして菊池の姿を認めると、柔らかく笑った。
「どうかしたのですか?」
「いや、ちょっと通りがかりに、お前の姿が見えたからな」
「そうですか」
穏やかに頷いた彼は、手元に開いていた本を閉じ、向かいに座った菊池のために、積み上げていた本の山を横へ動かす。
「川端は?」
めずらしく、いつも一緒に行動している、もう一人の弟子の姿が見当たらない。
先ほど感じた、妙な気がかりはこのためだったか、と菊池は内心苦笑いする。二人揃いでいるのが日常過ぎて、周りの人間の方が落ち着かないとは。
「里見君と出ています。梶井君と坂口さんも一緒でしたから」
賑やかでしょうね、と窓の外に目をやって、弟子は穏やかに笑う。面子から察するに、気に入りの犬でも見に行ったのだろう。つられて眺めた窓の外では、数羽の鳩が陽だまりで温まっている。
「あいつも此処に馴染んできたな」
「良いことです」
こちらに来た当初、師匠である菊池や、目の前の友人にべったりだった彼も、後輩や昔馴染みが増えるにつれ、口数も増え、各所に出入りするようになっている。最近では、ふらっと外出しては、どこかの店で見つけた骨董品を片手に、図書館へ戻って来る日もある始末だ。
「骨董品を図書館のツケで買うのは、程々にしてほしいもんだが」
結局、回り回って俺のところに来る、と冗談交じりにぼやくと、向かいの弟子は、端正な面差しを崩して、くすくすと笑う。そして、もう一度窓の外を眺めながら、穏やかに目を細める。
「――春が来ましたね」
「ん、そうだな」
「かの国の雪も、溶けゆく頃合いでしょう」
「……ああ」
「春には、花が要りますね」
うん?と首をかしげたところで――先ほどまで庭にいた鳩だろうか、軽い羽音と共に、鳥影が食堂を斜めに横切った。我に返って菊池が手元の時計を見れば、そろそろ友人達との約束の時間だ。
「そうだ、これから遣い物の買い出しに行くんだが、息抜きがてら、お前も来るか?」
「手前は、まだ少し調べ物があって……」
言いながら、弟子の左目が、積み上げた本の山を目線で辿る。付箋を入れた本の山は、なかなかの高さに積み上がっている。なるほど、これを図書館の閲覧スペースで片すのは、それなりに目立つだろう。
「そうか。あまり根を詰めるなよ」
「はい、そうします」
良い子の返事を耳に入れ、よしよしと頷いて立ち上がったところで、不意に名を呼ばれた。
「菊池さん」
「どうした?」
「……いえ、ありがとうございます」
一度懐に入ると、全力で甘え倒すもう一人と違い、生真面目で不器用なこちらの弟子は、甘え下手だ。どちらも菊地にとっては、たぐいまれな文才を持ちながら、自分を慕う可愛い弟子に変わりない。
腕を伸ばし、日に照らされて温まった頭を、ぞんざいにかき混ぜて撫でてやる。乱れた前髪から覗く琥珀の瞳が、はにかんだ色をして蕩けるのが分かる。面倒事も多いが、これを見られるのが、師匠の特権というものだろう。
「川端達も、夕飯までには帰ってくるんだろう?」
「ええ、その予定です」
「じゃあ、夕メシは一緒に食べるか。」
土産、買ってきてやるからな、と笑ってやると、弟子もつられたように笑って、はい、と答えた。
「楽しみにしています」
行ってらっしゃい、という声を背中に受けて――けれど、その約束の行方がどうなったのか、菊池の記憶は定かで無い。
午後三時を過ぎた昼下がり。食堂の窓から差し込む陽の光は、相変わらず穏やかだ。
人気の無い食堂の窓際に陣取った菊池は、かの日の弟子と同じく、積み上げた本の山に埋もれている。広げているのは、図書館に訪れる以前――自分たちがかつて生きた時代と、その後の文学に関する、本や雑誌類。注意深く頁を繰るが、そこに菊池の探しているはずの、弟子の名前は見当たらない。
手元の一冊に目を通し終え、眉間の皺を深くして、次の本に手を伸ばす。確かに、そこには彼の名前や姿があったはずなのだ。積み上げ、そこに広げている雑誌の中には、他ならぬ自分自身が書いた文章もあるのだから。
捲っていく項には、この図書館に二人いるはずの弟子のうちの一人、川端の名前が記されていた。最終的には、世界的な賞を受ける事になる彼の名前は、戦前にはちらほらと、戦後の書籍には頻出するようになり、晩年には大きくとりあげられている。けれどそこに、菊池が川端引き合わせ、彼と歩みを共にしたもう一人の弟子の姿は無い。彼の足跡は、忽然と消えてしまっていた。
――そもそも、師匠である菊池ですら、彼の名前や姿を正確に思い出せない。食堂で彼に声を掛けたのも、昨日のことか、もしくは何年も前の出来事なのかも、おぼろげだ。
「冗談じゃない」
背中につたう嫌な汗を無視して、必死に記憶を手繰る。けれど、思い出そうとする姿は、浮かべる端からもう一人の弟子の姿が重なって、いつの間にか上書きされていく。あの春の先触れのような菫の髪色も、端正な口元に浮かべる、穏やかな微笑も覚えているに・・・・・・
「――くそ」
八つ当たり気味に向かいの椅子を蹴り上げると、気配に驚いたのか、窓の外の鳩達が一斉に飛び立った。食堂の広い窓から鳥影が室内に散らばってゆく。
不規則に交錯し綾織りになる明暗と、腹立たしい程の無邪気な羽音に、記憶に残った微かな気配すら消えそうな気がして、菊池はきつく目を閉じた。食堂のどこかに飾られている花から、甘い春の香りが鼻孔に届く。
閉じた瞼の薄闇で、麝香連理です、菊池さん。と端正な口元が、柔らかく笑ったような気がした――
――新しい小説は書かないのか。
そう恩師から言葉を掛けられた横光は、早速その日から草稿をまとめた。たとえ読者がいなくとも文字は綴れるが、誰か一人にでも望まれて記す文章は幸いだ。まして恩師が望んでくれるのならば、これ以上のことはない。生前にたいした恩返しが出来なかった分も、と意気込んで筆を執った。
忙しい日々の合間を縫って書き上げた文章は、それなりに納得がゆくものだったが、読み返した横光は、どこか違和感を覚えた。まるで誰かが自分の文体を真似て、代筆したかのような文章。意気込みすぎたか、と苦笑いして、もう一度読み返し、首をひねりながら、何度も推敲を重ねるが、どうにもしっくりいかない。
そうこうしているうちに、図書館には作家が増えていった。かつて盟友とした友人も訪れ、横光の周囲も賑やかになる。かつての恩師と親友。衣食住の心配も無く、資料も豊富な図書館という職場。これ以上無いほどの環境だった。けれど、師に期待された文章は、遅々として進まない。
推敲を重ねて疲れ切った頃、自分の隣を歩く首巻きをつけた友人を眺めて、ふと、横光の頭に、一つの疑念が浮ぶ。己は「新感覚派の作家、横光利一」ではなく「有名作家、川端康成の盟友作家」なのではないのか、と――
その日から、図書館で読めるだけの資料をあたった。そうして、横光の推測は帰結していく。戦前には横光と川端という並びで書かれていた評論や特集記事は、戦後には川端と横光となって、川端が世界的な賞を受賞する頃には、自分の名前など、友人が口の端に乗せた時に、少し書かれる程度。現代に残る横光の印象は、多分に友人、川端康成のフィルターを通した姿で構成されている。
――自分が此処に来たのは、このためだったか。
図書館の隅で、横光は短く呻いて頭を抱えた。それは横光にとって、祝福であり、呪いでもある。並の作家ならば良かったのだろうが、世界的な賞を取った彼の影響は強い。
書けないはずだ、おそらく自分は作家などではなく、隣を歩く友人の記した、記憶の残り香だったのだから。
心残りは、新作を望んでくれた恩師に、原稿用紙の一枚さえ残していけない事だ。けれど、自分の代わりに残る友人は、きっと師が喜ぶような文章を多く書いてくれる。彼には、世界が認める程の才があるのだから。まだ、それを喜べる己で良かった。そう思いながら、ゆっくりと瞑目する。
閉じた瞼の薄闇に、麝香連理の香りが灯って、横光は柔らかく笑みを浮かべた。
――願わくは、彼等に訪れる春の、先触れであれるように、と。
ゲーム内外で「川端の構成要素としての横光」という印象が強くて
「ノーベル賞作家川端の盟友」を差し引いた「新感覚派の旗手」としての作家や
作品としての彼は、もしや限りなく薄く割られた(カルピスみたいに言うんじゃない)
存在なのでは、と思って。
あと、戦前の新感覚の名前の並びは横光と川端だったが、戦後には川端と横光になって
後に川端の名前が大きくなっていった。という記述を見て、うわあああ、となったので。
古典的ですが、菊池さんパートに仕込みをしてあります。
良かったら横光を探してあげてください。
「ノーベル賞作家川端の盟友」を差し引いた「新感覚派の旗手」としての作家や
作品としての彼は、もしや限りなく薄く割られた(カルピスみたいに言うんじゃない)
存在なのでは、と思って。
あと、戦前の新感覚の名前の並びは横光と川端だったが、戦後には川端と横光になって
後に川端の名前が大きくなっていった。という記述を見て、うわあああ、となったので。
古典的ですが、菊池さんパートに仕込みをしてあります。
良かったら横光を探してあげてください。