春が来るのはあなたのせいです
※『さよなら わたしは 春になります』続編。――紫の糸をぞ我が搓るあしひきの
廊下を歩いていた川端は、手元から香ってきた甘い匂いに、目を細めた。
時刻は、午後の三時を半分ほど過ぎた昼下がり。春の陽光が、穏やかに差し込む図書館は、何処も明るく、暖かい。遠くで、暢気に鳩の鳴く声が聞こえる。
川端の手元で、春を告げるように香る花は、最近、執筆に行き詰まっている様子の、友人への手土産だった。今日は、食堂で調べ物をすると言っていた彼のために、自室ではなく、食堂へ足を向ける。
しばらく廊下を歩いた川端は、ふと足を止めた。遠く、耳の奥で、小さく耳鳴りがした気がする。
「……?」
首をかしげて、辺りを見渡してみるが、何の変哲もない、午後の穏やかな廊下が続いているだけだ。気のせいか、そう思って進行方向に向き直ったところで、思わず蹈鞴を踏んだ。
向き直った正面、廊下の奥から、酷く嫌な気配が漂っている。その廊下の突き当たりにあるのは、川端の目的地である、食堂の扉だ。おそるおそる近づいて、震える手をドアノブにかける。意を決して、一気に扉を開けた。
そこは、いつも通りの、食堂だった。広い窓から差し込む光は、暖かく明るい。扉の開く音に驚いたのか、鳥影が窓際を横切っていく――しかし、そこに人の気配は無かった。
「――」
ひどい目眩がして、思わず床に膝をついた。床に散らばる、落とした花の名前を、思い出せない。背後からは、音量を増した耳鳴りが迫る。轟々としたそれは、吹き荒ぶ雪原の音で。
――ああ、これは孤独の音だ。そう呟く己の声を、遠くで聞いた気がした。
川端が瞼を上げると、そこは一面が白で覆われていた。耳鳴りは未だ治まらず、眉根を寄せたところで、視界に心配そうな師匠の顔が覗いて、そこでようやく、自分が補修室の寝台で、横になっているという事に気付いた。
師匠曰く、どうやら友人は、引きこもりを決め込んでいるらしい。現在、友人の著作は、彼が引きこもると同時に、一切が消えてしまったという。なんとか図書館に残った書き付けを集めて、師匠である菊池が迎えに行ったが、どうにも説得が出来なかった、という話だ。疲れ切った様子の菊池は、なかなか口を割らなかったが、川端の食い下がりに、渋々詳細を語ってくれた。
夜半、人気が無くなった頃合いを見計らって、川端はそっと寝台を抜け出す。翌朝には、もう一度、今度は自分と師匠が、友人を迎えにいく手筈になっていたが、朝が来るのを待っていられなかった。何より、ずっと耳元で鳴っている、耳鳴りが煩わしい。
病室を抜け出すのは、生前何度か実践済みなので、馴れたものだ。生前の経験が、まさかこんなところで役に立つとは、と内心苦笑いする。そのまま、静かに図書館内を進み、目的の部屋の扉を、そっと開く。錬金術師の仕事部屋に、件の書き付けがあるかは賭けだったが、どうやら今のところ、運は川端側についているらしい。灯りをつけない暗闇の中、重厚な仕事机の片隅に、いかにも突貫で仕上げました、といった風の冊子が置かれている。
開いた中身は、茶席に使う、花や菓子についての端書きだった。これを探し出すのに、師匠はさぞ、苦労したに違いない。それでも、そこにある文字は、紛れもない大切な友人の文字で、川端は思わず息を吐いた。
「……利一」
一通り文字を追ったところで、ふと思い立ち、手近にあった適当なペンで、最終項の余白に、書き込みを入れる。ひとつ頷いた川端は、そのまま、いつも通りの潜書の手順を踏んだ。見様見真似だが、回数を重ねて、要領は分かっている。錬金術師はいないが、一人くらいならなんとかなるだろう。そう思いながら、冊子を抱えて瞼を降ろした。
降り立った場所は、事前に聞いていた通りの室内だった。
なんとか上手くいったようだ、と安堵しながら、川端は辺りを見渡した。急拵えで作ったためだろうか、そこは一見すると、四畳半の茶室のような設えだが、躙り口や炉畳は無い。床の間には、竹の花入れに、赤い実を付けた枝が生けられ、静謐な空気が満ちていた。雪見障子の向こうでは、雪が舞っているのが見える。
師匠の話では、すっかり眠ってしまった、という話だったが、どうやら起きていたらしい。横光は畳に座り、雪見障子の向こうの庭を眺めていた。川端が名を呼ぶと、彼は頭を返して、ゆるりとこちらを見る。
「やはり、貴方も来たのか」
「はい……菊池先生が心配しています」
もちろん私も、そう言いながら、彼の向かいに腰を下ろす。
「川端、すまないが――」
「菊池先生から、大体の話は聞いています」
横光の先手を打って、川端は言葉を重ねる。重要なのは、顛末では無く、この先だ。さらに言うなら、戻りたくないという理由を、彼の口から聞きたくなかった。
「貴方の内情は察しています。それでも、一度こちらへ戻りませんか」
横光の返答は無い。川端の眉間に皺が寄る。
「このままでは、貴方も、貴方が書いた文も無かったことになってしまう……貴方は、それで良いのですか?」
「……」
その沈黙は、諾という意図だろう。横光のその態度に、人の苦労も知らないで、と腹が立った。かっとなった川端の指が、手近にあった花入を掴んで、床に叩き付ける。渋い竹の花入れが転がり、生けてあった枝が散らばる。中の水が溢れて、畳に暗い染みを作った。
「貴方が!そうやって、頑固なくせに!妙なところでばかり、物分かりが良いから、私が――」
あたる物がなくなり、川端は手を伸ばして、横光の胸元を掴む。慣れない姿勢に平行を崩し、支えを求めて、障子に背中を預けた。二人分の重心を支えきれなかった障子は、がたつき桟を外れながら、半畳文ほど空間を空ける。川端は、黙ってされるままになっている横光の顔を、ぎり、と睨んだ。おそらく自分は、酷い顔をしているのだろう、そう思いながら口を開く。
「なんとか言ったらどうです」
「……川端」
「はい」
「今日は口が回るな」
「お望みなら関西弁も付けます」
「興味はあるが、遠慮しておく」
「でしょうね」
拍子抜けしたような、川端の一言を最後に、室内に静謐が戻ってきた。先ほど開いた障子の隙間から、ひんやりとした空気が、室内に流れ込む。
先に折れたのは、川端の方だった。横光の着物から手を離して、口を開く。
「貴方や菊池先生に、恥じない作家でありたかったのです……」
川端が喉から絞り出した言葉は、静かになった室内に思いのほか、大きく響いた。
「私が、良い文を書き続けていれば、きっとあなた方の恩に報いることが出来ると――」
けれど、自分の名前が売れれば売れていくだけ、友人の名前は自分の名前で覆われていった。こんなとき、上手い采配を取ってくれたであろう恩師も、既にいない。そうして賞を受ける頃には、いつのまにか大衆の求める、作家川端康成が作り上げられ、その背後に彼の恩人であり、親友である横光の影はなかった。
「貴方の、いえ、この国の文学の矜持を保つために、私にできる限りのことはしてきました。きっと私も……ただの作家である、川端康成はいないでしょう――まだ、足りませんか」
川端は、言い切って、視線を障子の向こうの庭へ移す。反論を覚悟したが、一向にそれはやってこなかった。怖々と前を見ると、目の前の彼は、悄然と肩を落として俯いてしまっている。その様子は、外見相当の年若い青年そのもので、川端は瞼を閉じて、思いを巡らす。
横光の享年は四十九歳、対する川端は七十二。友人達を見送り、刻々と変わる世間に身を置き、歩いてきた自分に比べ、横光の時間はほとんど動いていないのだ。己の置かれている状況に混乱し、割り切れないのも、当然かもしれない。それは、ひどく切なかったが、同時に、それでも、この時間をもう一度隣で刻める事が、嬉しくもあった。
川端は、ゆっくりと閉じていた瞼を上げる。
「……すみません。少し、意地の悪い言い方をしました」
苦笑いを浮かべながら、年下になってしまった盟友の手を取る。人の血が通う掌、男性特有の、骨張った指先。それは、どこかに置いてきた、ブロンズの置物などではない。それを頭の隅で確認して、思わず息を吐いた。耳鳴りは、もう治まっている。
「おあいこ……というか結果的に今は同じ立場、ということで大目に見てくれませんか」
「――勿論だ。手前の方こそ、川端の心情を斟酌せず、短慮をしてすまなかった」
横光の真摯にこちらを見つめる視線は、見た目の姿が変わっても、出会った頃と変わりない。川端が、ええ、と頷くと、横光は苦笑いしながら、困ったように小首をかしげる。
「いつもあなたに窘められてばかりだな」
青年と言うより、むしろ子供のような仕草に、川端の口元も緩む。
「馴れています……さすがに、今回は焦りましたが」
一緒に戻ってくれますね、という川端の問いに、今度は素直に、ああ、と返事が返ってくる。そうして、立ち上がりかけた横光は、あ、と小さく声を漏らした。
「どうしました?」
「また菊地さんに怒られてしまうな」
「……私もです」
渋面を作った横光に、川端も重く頷く。
「手前は分かるが、川端もか?」
「ええ、少し・……」
補修室を抜け出し、勝手に潜書したという事実は、図書館に戻れば簡単に露見する事だが、ここで横光に事情を話して、二度も説教されるのは避けたい。思わず視線を逸らした畳に、赤い実を付けた枝を捉え、川端はこれ幸いと話題を変える。
「藪柑子……山橘ですね。よい木です」
「庭にあるものを、雀が啄みに来る」
「菊池先生から聞きました。結局、先生は雀を見られなかったとか」
「ああ」
見せたかったのに、という横光の残念そうな声に、つい笑いが漏れた。
「私の糸は通ったようですから、残りは彼らに差し上げましょう」
川端は言いながら、畳の上の枝を拾って、庭へ放る。瑞々しい赤い実が、薄く積もった雪の上に、色を添えた。いつのまにか雪は止んでいる。早速やってきた雀が、枝を咥えて羽ばたいたとき、そこに人影はなくなっていた。
春の陽光が、穏やかに差し込む食堂。その一角に、むっつりと眉間に皺を寄せた師匠、その向かいに、ちんまり座る弟子の姿があった。
師匠に説教される弟子、という構図自体は、この図書館では珍しくも無い。ただ、今回は比較的優等生な新感覚派の二人と、これまた弟子にはあまり干渉しない師匠の菊池、という非常に希な取り合わせだ。その物珍しさからか、物見高い文士の数人が、食堂の扉の向こうで、聞き耳を立てている気配がある。
「……で、言うことは?」
扉の向こうにいる、野次馬の気配は見なかったことにして、腕を組んだ菊池は、重々しく弟子に声を掛ける。寒色の首巻きが、先に口を開いた。
「……川端は、対面で喧嘩をすると、物を投げるタイプでしたね」
「怒るのは体力を使うので……もうしないと思います……」
あと、他人に掴みかかるのは、難しいですね。そう続くもう一人の答えに、扉の向こうが、そうじゃないだろ、と突っ込みを入れるのが、菊池の耳に届く。菊池としても、大いに同意して、突っ込みを入れたいところだが、一応、師匠としての体面がある。
「他は?」
さらにボケたら、今度こそ怒鳴ろう、そう決めて重ねて尋ねると、目の前の二つの頭が、卓上にぶつかりそうなほど下がった。
「ご心配をおかけして、申し訳ありありませんでした」
「勝手をして、すみませんでした……」
先ほどとは打って変わって、こちらの意図をくみ取った、素直な返事に、深くため息をつく。なんだかんだ、二人とも周りをよく見て、頭が回る弟子なのだ。今回はそれが完全に裏目に出た形だったが――
「まあ、ちゃんと帰ってきたなら良いさ」
苦笑いをしながら、二人の頭を撫で、顔を上げさせる。我ながら親馬鹿だ、と内心でひとしきり笑った後、思い出して懐を探る。取り出したのは、横光の書き付けを綴じた冊子だ。
「勝手に漁らせて貰ったぞ」
すまんな、といいながら、横光に手渡す。
「いえ、こちらこそ、お手数を掛けて……ありがとうございます」
恐縮しながら受け取った横光は、ぱらぱらとページを捲る。その指が、ふいに最後の一ページで止まった。
「これは――川端が?」
向かいの菊池も、横光の手元をのぞき込む。最終ページに書き込みがあった。
――紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
余白に、万葉集に収録されている和歌のひとつが添えられている。
「ええ、勝手にすみません。菊池先生から話を聞いて……ちょっとした、御守になるかと思いまして……」
ああ、合作の形になってたのか、そう言って、笑いながら菊池が頷く。
「やけに簡単に、行って帰ってきたと、錬金術師と首を捻っていたんだ――そうだ、お前ら合作はどうだ?短編で」
「それも良いですね……」
「はい」
陽光の差し込む穏やかな食堂。師匠から弟子への説教の場は、編集者と作家の、新作打ち合わせ会議の場へと変わる。食堂の扉周りに居た野次馬達も、いつの間にか解散しているようだ。
窓の外で、鳩が羽音を立てるが、それに気付く者はいない。生けられた麝香連理の花束が、春を告げるように、甘く香った。
前回があんまりなラストだったのと、脳内川端さんの圧が凄かったので…
目が覚めたら、同業の親友が、世界でも有名な賞を取っていて
そのネームバリューで自分の名前が忘れられていた横光と
友人や恩師のためにと、売れれば売れるほど、己のネームバリューで
友人や私的な自分自身が忘れられていく川端…業が深いと思います。
あと、ノーベル賞関連のインタビューで、個人としてでは無く
アジア、日本の文学者として、受賞できたことを喜ぶコメントを読んで
(文アル内での)川端の幸福は何処に…と、ちょっと思ったので。
もし良かったら、藪柑子の誕生花の日付と花言葉を調べてみてください。
この横光は、意図してこの日付にいたと思います。