ワールズエンドワルツ
「ここが良いですかね」
引いていた横光の手を解いた川端は、閉まっていたカーテンを引き、窓を開けた。
図書館二階の閲覧室は、普段ほとんど使用されないこともあって、椅子や机が部屋の隅に寄せられている。緩やかな風と、春先より若干強くなった日差しが、広く取られた寄せ木細工の床を撫でた。
「川端、原稿は……」
「提出したじゃないですか、昨日」
窓を開ける背中にかけられた、どこかぼんやりとした横光の声に、川端はため息と苦笑いを押し殺して答える。
数ヶ月前に一部有志の文士達が立ち上げた短編の企画は、話が進むごとに規模が大きくなったらしい。初めのうちは、他人事に成り行きを見守っていた新感覚派の二人だったが、いつの間にやら、企画参加のメンバーに検討されていたらしい。恩義ある師匠から、顔を立てると思って、と正面から執筆を依頼されれば、多少の重圧を押してでも、参加せざるを得ない。そうして仕上げた原稿は、現在編集者という名の師匠の手元にある。
「ああ、そういえば……そうだったか」
「ええ」
早々に原稿を仕上げ、提出した川端と違い、横光は最後まで原稿用紙と格闘していた。校閲はやってやるから、しばらく寝てこい、と言われたのが昨日の夜半。それから時計は一周半と少しして、今は昼過ぎの長閑な気配が、建物全体に漂っている。
因みにこのやりとりは、川端が横光を起こしてから、本日三回目だ。一度目などは、これは可愛らしい、などと思ったが、三度目ともなれば、最早乾いた笑いしか出てこない。
「今日も良い日ですね」
「…………ああ」
まだ半分寝ているらしい横光の返答は、これまた長閑だ。これではいつもと逆ですね、と川端は内心笑う。執筆に心血を注ぐのはこの友人の美点だが、少々改めてほしい欠点でもある。
今日の図書館は休館日で、一般利用者に気を遣うことなく、文豪達が大手を振ってはしゃげる日だ。川端が横光の手を引いて入ったこの二階も、二人以外の姿はない。
一階から微かに聞こえるのはノクターン。今日は朝からレコード好きが集まって、あれこれ自分たちのコレクションを披露しあっていた。ピアノの詩人と謳われたショパンの繊細なメロディーは、美しいが、どこか翳りを纏っている。
ふと声が聞こえた気がして、川端が中庭を見下ろすと、紙飛行機を手にした童話作家達が手を振っていた。こちらも手を振り返して応答すると、お疲れさま、という労いの言葉が、屈託ない笑い声と共に耳に届く。
隣の相方が、原稿で缶詰になっていた様は、どうやら図書館中に知れ渡っているらしい。しかし、隣はまだ半分微睡むような気配で、うつらうつらとしながら、一拍遅れて手を振るなどしている。いつもの頑固者が、文句も言わず素直に手を引かれる様子は、見ていて気分が良いけれども、少しだけ寂しい。
どこか遠くから茉莉花の香りがした。同時に、夏の匂いを含んだやや強い風が、レースのカーテンを巻き上げる。風に乗る紙飛行機と子供らの歓声。
――これは僥倖。
思わず呟いて、かすめるように触れた口元には、キャメルの匂いが香っていた。いつだか師匠に貰ったひと箱を、後生大事に吸っているらしい。
女学生ですか、思わず溢れた川端の苦笑いに、人のことは言えんだろう、と同じく苦笑いの小さな声が応える。夢現を彷徨っていた友人は、どうにか目を覚ましてくれたらしい。――ええ、そうですね。多少頑固だろうが、苦言や小言が多かろうが、こちらの方がずっと楽しい。
ようやく、今日初めて視線が絡み合って笑う。おはようございます。ああ、おはよう。
階下から聞こえる音楽は、いつの間にか明るい曲調に変わっている。コッペリア、三拍子。
川端は、悪戯心で横光の手を取って、軽くステップを踏んだ。寝起きの彼は付いてこられないと思ったが、思いの外スムーズにこちらに合わせてくる。運動神経は生前と変わらず、といったところか。
「……ノーベル賞には、晩餐会のあとに舞踏会があるんです」
「どうだった?」
「さあ……どうだったでしょうか……」
物語のコッペリウスは、人形に命を吹き込むことができなかったが、こちらの錬金術師は有能だ。温もる肉体に、生前の業と魂を吹き込まれた人形達は、世界の終端のような図書館で、過去の朧気な記憶を抱えて踊る。
右にふたつ、左にひとつ。適当に取ったホールドなので、ステップも適当だ。着物でも存外踊れる事に、川端は少し笑う。
――貴方と踊れるなら、もう一度狙ってみましょうか。
――とんだ不遜者だな。
茶化して笑えば、生真面目が眉をひそめる。
――そのうち本当に太宰君に刺されるぞ。
――それは困りますね。
もう一度吹き込んだ風に、レースのカーテンと床に映る影が一緒になって踊る。草履の爪先とサンダルの踵が、寄せ木の床を鳴らした。茉莉花の香りが、鼻先を掠めて抜けていく。
川端がちらりと見た空には、真白な雲が浮かんでいて、本格的な夏が近いことを教えていた。