ここは奈落の花溜り:時計草


 万年筆が紙の上を滑る微かな音が、深夜の暗い部屋に響く。部屋の灯りは既に落としてあるため、手元のテーブルランプの光だけが、報告書を書く男の手元を照らしている。
 基本的な図書館の手入れ、日常業務、潜書、報告と日々の仕事は諸々だ。名ばかりとはいえ、帝国図書館の『館長』として図書館を回してゆくには、ある程度の雑務をこなさねばならない。しかし、男が館長を務めるこの図書館では、この仕事が出来る者は男だけである。それは、男の目的あってのものだが、流石にいささか手に余る。そう、男はひとり自嘲しながら、休憩ついでに首を回した。テーブルランプの明かりで、薄暗く照らされた部屋。見上げた先の壁に掛けられた、重厚な振り子時計の針は、あと数分で日付が変わることを教えている。
「……ん」
 最後の報告書をまとめ上げ、息をついたところで、男はふと顔を上げた。どこからか、子猫の鳴くような声がしている。音の出所を探して視線を巡らせば、暗闇の向こう、ちいさく開いた扉の隙間から、紫色の頭が覗いていた。
「かんちょう……」
 たどたどしい口調と、焦点を結ばないぼんやりとした子供の視線に、またか、と男は苦笑して腰を上げる。
 昼には大人顔負けの講釈を語り、すっかり慣れた図書館を駆け回る子供は、けれど今でも不安げな顔で、度々こうして夜半に男の元を訪れる。
「おや、どうしたかな? 」
 近づけば、子供の小さな手が、男の肩に掛かった上着の裾を握った。
「……こわい……ゆめを、みたのです……」
 夜半に訪れる子供は、大抵こうして潤んだ寝ぼけまなこで、夢を見たと訴える。
 男は目線を合わせるように、未だ半分寝ている子供の顔を覗き込んだ。昼の快活な琥珀の瞳は色を潜め、夢と現、彼岸と此岸の狭間を、暗い鬱金色が彷徨っている。男は、そうか、と言って上着の裾を握る子供の手を取って、腕の中へ抱え上げた。

「……だから、てまえは……」
 深夜の暗い廊下を歩く男の靴音に、訥々と夢の内容を話す子供の声が重なる。
 毎度子供が語るのは、生前の記憶だ。それもどうやら、あまり良い記憶ではないらしい。それは、転生文豪としての、本来有るはずだった姿と違った形になっているからなのか、あるいは、男がこの場所で『館長』をしている故なのか、それは分からない。
 あらかた話して、口をつぐんでしまった子供の背中を、男はなだめるように優しく叩いた。
「そう、だからこそ我々は文学を取り戻し、それを以て大衆を導かねばならない」
 安易にそれは悪い夢だと、あるいは彼の師匠のように、新しい話を書け、などとは言わない。
――悪夢を上書きする温かな夢では無く、悪夢の上をゆく冷徹な現実を。今生の祝いでは無く、前世からの呪いを。
「君は聡明だから、解っているだろう」
「……はい」
 返事と同時に扉を開けば、そこが子供の寝室だ。
「かんちょう」
「どうした」
 寝台に近づいたところで、ふいに腕の中の子供が男を呼んだ。
「手前の文章は、間違っていなかった」
 そうですね、と強い意志を持った黄金色の瞳が、射るように男を見つめている。間違いなく、この子供の内側には、文豪と呼ばれるだけの記憶と人格、そして前世の業が渦巻いているのだろう。そして彼は、神様とさえ呼ばれた作家だ。
「……ああ、そうだ」
 男は今にも高笑いしたい衝動を、父親めいた微笑みで覆い隠す。寝台に上げ、お休みと頬をひと撫でしてやれば、子供はいつものように、素直に微睡みの海に落ちていった。

「……」
 子供が寝入ったのを確認して、男は軽く息を吐いた。ふと見た枕元の陶器の置き時計は、日付が変わったことを指し示している。職人の洒落なのだろう、ぐるりと文字盤を飾る花の意匠は、蔓を絡ませる時計草だ。夏の頃、庭で見つけた同じ花を、熱心に観察していた子供の姿を覚えている。
「eli, eli, lema sabachthani……か? 」
 思わず漏れた独り言に、皮肉なものだと薄く笑う。この花をアトリビュートのひとつに持つ人物は、神に向かって、何故見捨てたのか、と問うた。それでは、はたして人に見捨てられた神は、何を思うのか――
 そこまで思ったところで、ぱたん、とまるで何かに抗議するように、背後で音がした。男が振り向けば、本棚に立てられていた、数少ない本の一冊が床に落ちている。
 そう、本とは厄介だ。本という形式でそこにあるならば、著者の生死、時代の新旧は簡単に超越する。そして一度目を通してしまえば、その好悪にかかわらず、読んだ者の人格に何かしらの色を付ける。あるいはそれは、巡り巡って、時に大衆の意思さえ方向付けることも可能だ。ただし、いま男の前にある床の上の一冊の本は、物理的に何が出来るわけではない。
「……君らが捨てた神さまだろう」
 屈み込んで、その本を拾う。男が拾い上げた本の表紙は、既に黒く染め上げられていた。拾った本を懐に入れ、男は踵を返す。そろそろ新しい読み物も必要だろう、寒くなってきたから、羽織る物も必要だ。そして、子供でも扱える程度の武器も。
 寝台に背を向け、うっそりと嘲笑する男の口元は、眠る子供に見えようはずもない。男は音を立てないよう、静かに子供の部屋の扉を閉めた。外界と切り分けられたような暗い部屋の中では、微かな時計の音と、子供の小さな寝息だけが響く。
「……kyrie eleison」
 閉じられた扉の前で、再び仄暗く笑った男は、闇に沈む図書館の奥へと、静かに廊下を歩き出した。



『ここは奈落の花溜り』
お題:エナメル
   

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