名前のない楽園 1
かたん、という揺れと、どこからか漂う沈丁花の香りに、横光の意識が浮上した。
薄い光を感じて目蓋をあげると、見慣れた電車の車内だ。車窓からは、穏やかな鎌倉の町並みが見える。平日の午後とあって、乗客の姿はまばらだった。
「……っと」
どうやら、電車の揺れが心地よく、うたた寝をしてしまったらしい。
横光は、スカートの裾を整えながら、それとなく停車駅を確認する。さいわい、横光が眠っていたのは数分だったようで、目的の駅はもう少し先だ。目線を移すと、隣では握った手巾《ハンカチ》を膝に置いた川端が、安らかな寝息を立てていた。
通っている女子校が休暇に入っているあいだ、横光と川端は叔父の持つ、鎌倉の別邸で過ごしている。今日はその初日、午前の終業から直接電車に乗ったため、ふたりとも制服姿だ。
乗り過ごさないで良かった、と横光はかすかに苦笑いをこぼし、川端の曲がってしまっているセーラーの襟を整えてやる。その気配が伝わったのか、眠っていた川端が、ちいさく身じろぎをして目を開けた。
「……利一?」
「起こしてしまったか」
「いいえ……こちらこそ、すみません」
すまない、という横光に、川端は淡く微笑んでから、視線を落として、もう一度ちいさく詫る。川端の視線の先、スカートから覗く横光の左足首には、白い包帯が巻かれていた。休暇の数日前、暴投されたボールから川端をかばった際に傷めたものだ。
川端の視線に気付いた横光は、かるく笑う。
「依頼が増えて困っていたんだ。良い口実ができて、感謝している」
横光の所属は茶道部だが、元の運動神経の良さから、運動部からの助っ人依頼が来ることがある。特に、休暇中は依頼が重なることも多く、横光と川端が別邸に向かうのは、たいてい休暇の前半が終わってからだ。しかし、今年は怪我を理由に、全ての依頼に断りを入れてある。
「おかげで、初日から川端とゆっくりできるからな。文字通り、怪我の功名だ」
貴方を贔屓にしている先輩方には悪いことをしたが、そう横光が茶化して笑うと、隣の川端も、くすくすと笑いをこぼす。
「塞翁が馬、ですか……こちらこそ、文武両道の『利一おねえさま』の休暇を独占できて嬉しいですよ」
「――どこから仕入れた? その呼び方」
「中等部の……たしか、織田さんとか……」
「ああ、あの三つ編みの」
「ええ……優しくて下級生に人気の、利一おねえさま」
「やめてくれ、川端にまでそう呼ばれたら敵わん」
揺れる車内に、二人の少女たちの楽しげな笑い声が弾む。その声を乗せた電車は、午後の線路を穏やかに走っていった。
「……ご苦労さまです」
「ありがとうございました」
駅前から乗ってきた、叔父が手配したハイヤーの運転手に礼を言い、川端と横光は門の前で荷物を降ろした。住宅街から離れたこの別邸は、周囲を鎌倉山の木々に囲まれ、静かな気配に包まれている。
「……持ちます」
市街地に戻るハイヤーの音を背後に、川端が、足元に置いた横光の鞄を手に取った。
「いや、そこまでの怪我では」
「では、玄関口まで……」
怪我自体は、軽く捻った程度で、たいしたことはないのだが、庇われた川端としては、責任を感じているのだろう。いつになく強い口調と、視線に根負けした横光は、軽くため息をつきながら、了承の答えを口にする。
「……わかった、よろしく頼む」
川端の返答はないが、その沈黙が承諾の意を持つことは、二人の間で暗黙の了解になっている。二人分の鞄を肩に掛けた川端は、数寄屋風に仕立てた門の扉を静かに開いた。
門から建物へと続く前庭は、それほど広くはないものの、花木が多く、いつの季節も、常にどこかしらで花が咲いている。茶花に困ることがないので、まるで極楽浄土だ、などと言った横光が、川端からにらまれたのは、昔のことではない。
「利一……」
「ああ、今行く」
刈り込まれた躑躅の鮮やかな紅を目の端に入れつつ、横光は半歩先を行く、川端の横顔を覗った。淡い白練の髪と、とろけるように深い琥珀の瞳を縁取る、長い睫毛。まろく儚げな雰囲気は、周囲の庇護欲を無意識に煽る。しかし、そこに妙な違和感を覚えた横光は、ちいさく首をかしげた。
――はたして彼女は、こんな容姿だっただろうか
「……いや、もっと」
「利一、どうかしました?」
「あ、いや……その、重くないか?」
「平気ですよ」
とりつくろう横光の返答に、川端はちいさく微笑んで、敷石をひとつ飛び越す。いつになく得意げなその笑顔に、横光も思わず口元がゆるむ。そのまま、絞りの花をつけた寒椿の木を回り込み、白い芙蓉の植え込みを抜ける。その先に見える扉が、この別邸の玄関口だ。
「こんにちは……」
「叔父さま、到着しました」
二人分の声が、玄関ホールに響く。戦前に建てられたという別邸は、前面に石造りのモダンな洋館と前庭、後方に書院を備えた和風建築で構成されている。
「……忙しいのでしょうか」
「わからん」
玄関の上がり口で、川端と横光が声を掛けたものの、建物の中からは返答が返ってこない。普段から何かと二人を気に掛けてくれる叔父は、別邸を訪れるたびに、必ず玄関先で迎えてくれるのだが、今日はその気配すらなかった。
「……どうしましょう」
「とりあえず、上がってみるか」
川端と横光は顔を見合わせつつ、部屋の中をあらためていく。食堂に入ったところで、川端が横光を手招きした。
「……利一」
「どうした」
「これを……」
横光が近づくと、川端はダイニングテーブルの上に置かれた封筒を示す。横光が封筒の中身に目を通すと、仕事の都合で、別邸に合流するのが遅れる旨と、それを詫びる言葉が、叔父の字で書かれていた。
「――こちらに来るときに、土産を買ってきてくれるそうだ」
「叔父さまらしいですね」
ちいさく笑う川端に、横光はそうだな、と返す。
「手前たちよりも、もっと他に使うところもあるだろうに」
「でも、嬉しいですよ……」
「川端、叔父さまが良いと言っても、あまりねだるなよ」
「必要なものしか頼んでいませんよ」
「……」
儚げな美少女の、しかし少々図太い微笑みに、思わず苦笑いをこぼした横光は、明後日の方向へ視線を向けた。そして、その視線が空中をさまよう。こんな会話を、どこかでしたことがなかっただろうか――
「…………」
「利一?」
横光は、首をかしげる川端に視線を戻す。一瞬感じた、不可思議な既視感を振り払うように、横光はもう一度苦笑った。
「いや、やっぱり少し疲れたかな」
「今日はゆっくりしましょうか……」
「ああ」
横光の答えを待っていたかのように、食堂の時計が、午後三時の鐘を鳴らした。その絶妙なタイミングに、川端と横光は一瞬瞳をしばたかせ、同時にくすりと笑い合う。ふたりきりの休暇は、紅茶と茶菓子を用意するところから、開始されることとなった。
壁に掛けられた時計の鐘の音が耳に入り、横光は読んでいた詩集に栞を挟んだ。目をやった窓の外では、小糠雨が降っている。前日の夜から降り出した雨は、小雨ではあるものの、昼を過ぎても止みそうもなかった。
「到着した翌日からこれか……」
降り続く雨を眺め、ちいさくため息をつきながら、横光はソファに座り直す。背中に当てた、ゴブラン織りのクッションが、横光の不満を柔らかに跳ね返した。建物自体は古いが、洒落者な叔父が、まめに手を入れているだけあって、設備や内装の質は良い。眺めと日当たりの良いこの部屋は、本来客間として用意されていたようだが、来客の少ない現状、川端と横光の読書室と化している。
「そろそろ休憩ですね……」
「ああ――あ、こら、川端」
かけられた声に顔を上げようとする直前、両肩の後ろから伸びてきた、川端の細い腕が、横光の胸元で交差する。どうやら横光は、ソファの背もたれごと、川端に抱きすくめられているらしい。二人分の体重をかけられて、質の良いクッションがゆっくりと沈んだ。
「……甘えただな」
「失礼な……休憩下手な貴方が、叔父さまに叱られないようにしているのですよ、利一おねえさま」
「まだ言うか」
川端の薄い唇が後頭部にあたり、そのくすぐったさに、横光は思わず笑みをこぼした。市街地の喧騒から離れた、ふたりだけの穏やかで静かな日常は、まるで楽園にいるようだ。
「茶菓子は何が良い?」
「昨日いただいた、小箱の楽園を……」
くすくす、と背後から聞こえる上機嫌な声が聞こえて、時折、不安げに曇ることのある川端の瞳が、穏やかに晴れていることが分かる。横光の肩で括った髪を、子供じみた仕草で弄ぶ川端の指先から、彼女の満足げな気配と、隠しきれない独占欲の欠片が伝わって、横光は微笑んだ。
「クッキー缶だな、わかった」
「……先に行って、準備しておきます」
「ああ、よろしく頼む」
機嫌良く食堂へと向かう、川端の後ろ姿を見送って、横光は苦笑い混じりに、ちいさく息を吐く。ここへ来てからの川端は、ひどく楽しげにしている。それは、時折目にする川端の暗い瞳に、妙な罪悪感を覚える自分にとっても、それは喜ばしい事だ。ついでにいうなら、川端から向けられる独占欲に、多少の喜ばしさを感じているのを、否定できない。
「……これは、重症か」
ふたりだけの楽園で、思わず口にした横光の言葉に答えるものは、振り子時計のかすかな音だけだった。
「おかえりなさい……大丈夫でした?」
「ああ、戸締まりのほうは。雨はまだ止みそうもないな」
別邸に到着して数日。毎夜の戸締まり確認をした横光が部屋に戻ると、川端はすでにベッドのシーツにくるまっていた。
「ああ、それは文芸部の?」
うつ伏せに寝転がる川端の胸元には、白紙の原稿用紙とペンが転がっている。
「ええ、締め切りは休暇明けですが、早めに書き上げたいと思いまして……」
はにかむように微笑む川端に、それは熱心だなと笑いながら、横光も川端と同じベッドに入る。もとは、二人に一部屋ずつ用意されていたのだが、なんだかんだと理由をつけて、結局同じベッドで寝ているので、苦笑いした叔父と共に、家具を運んで、一方の部屋を二人部屋にしてある。ちなみに、余ってしまったベッドと一部屋は、客室として残してあるが、未だに使われたことはない。
叔父は、遠慮なく友人を連れてくるように、と言ってくれるが、今のところその予定はない。しかし、それが実現したと仮定して、このふたりだけの楽園が消えてしまうことに、一抹の寂しさと不安を感じるのは、己が狭量な人間だからだろうか。横光が自問していると、隣から川端の呼ぶ声がした。
「利一……」
目線を移すと、いつの間にか川端が横光の腕を抱え込んでいる。
「どうした?」
「私たちが出会った時のことを、覚えていますか……」
「ああ、ありがたいな」
叔父、といってはいるが、三人は近しい血縁ではない。肉親に縁の薄い川端と、家族の都合で、引っ越しが多い横光を見かねた遠縁の叔父が、二人を引き合わせ、手元で面倒を見てくれいるのだ。
「ええ……貴女と出会えて良かった」
「手前もだ……」
川端の言葉にうなずきながら、横光は内心首をかしげた。どこかで、同じようなやりとりをした覚えがある。自分たちのことだ、同じような会話は何度となくしているだろう。しかし、ぼんやりとした記憶を探ると、どこかに強烈な違和感を覚える。では、どこが――
横光は自身の記憶を辿るが、考えれば考えるほど、その縁取りはぼやけていく。靄のかかったような記憶を振り切るように、横光は声をあげた。
「川端、その原稿が仕上がったら海へ行かないか」
その頃には、叔父さまもこちらに来ているだろう。そう横光が言うと、川端も良いですね、とちいさく笑う。ひとしきり他愛ない話をしてから、横光はベッドサイドの灯りを消した。薄い月明かりの中で、ヘッドボードの小鳥のレリーフが浮き上がる。その姿を見つめながら、横光はゆっくりと目蓋をおろした。
「今日も執筆か?」
「一応、そのつもりですが……」
朝食で使った食器を、シンクの洗い桶に沈めながら尋ねる横光に、川端は持っていた布巾を畳みながら答えた。数日間降っていた雨も上がり、穏やかな朝の陽がキッチンに差し込んで、壁に貼られたスペインタイルの花模様を、明るく照らしている。
「ただ……あまり進んでいなくて」
川端は答えを続けながら、横光の背中で、縦結びになっていたエプロンのリボンを結び直す。学校では品性方正で、しっかりしていると見られがちな――横光本人もそう振舞いたいようだが。彼女は、意外な所で大味なのだ。ついでに、川端が文芸部から依頼されている原稿は、最初の一行すら書けていない。
「――良ければ……今日は一緒に将棋でも指しませんか」
気分転換に、と川端は期待を込めて横光を見上げたが、対する横光の瞳は、気まずそうに、ふい、とそらされてしまう。おや、と思っていると、彼女にしてはめずらしく、歯切れの悪い返事が返ってきた。
「今日は、その、床の間に花を生けたいと思っていて……」
建物の奥にある和室は、横光の気に入りで、この別邸に来るたび、そこで手前や生け花をしている。今朝も、裏庭の菖蒲が良い色だと、上機嫌だった。
「そうですか……」
納得しつつ、川端は了承の返事をしたが、横光には、気落ちした気配が伝わってしまったらしい。少々慌てたような声が、でも、と続く。
「時間がとれたら、夕食後の息抜きは一緒にしよう。まだ焼き菓子が残っているんだ」
横光の言葉の裏で、洗い桶の中で泳いでいた、色違いのカップがぶつかり、ちいさく愛らしい音をたてる。その隠しきれない慌てようが、彼女の実直な人の良さを体現しているようで、川端は、ええ、とうなずきなから、口元をゆるめる。この別邸にいる時間だけは、運動部から引く手あまたの助っ人でも、下級生のお姉さまでもない、自分だけの彼女が此処にいるのだ。その満たされる独占欲に、子供じみているとは思いつつ、川端の体温が上がる。
「ありがとうございます……それまでには、白紙の海から上がれるようにしておきましょう」
「そうだな、よろしく頼む」
「…………」
川端は軽く息を吐いて、ペンを置いた。顔を上げると、時計の針は九時半を指している。朝食を終え、横光と別れてから、自室で筆を執ってしばらく。文芸部から依頼された原稿用紙は、白紙のままだ。どうにも、ここのところ集中力が続かない。
「そろそろ、叔父さまも来られるでしょうか……」
この別邸に到着して数日。昼には通いの家政婦が来て、昼食と夕食のほか、細々としたことをやって帰って行くが、他の時間は川端と横光のふたりきりだ。
横光とふたりで、慣れない朝食をつくってみたり、夜更かしをしてみたりと、いつもとは違う暮らしもそれなりに楽しい。ただ、休暇に入るのが遅れている、という叔父からの連絡は、いまだに届いていない。
叔父の仕事について、川端と横光はよく知らないが、聞いた話では、何某かの編集のような仕事をしているらしい。川端と横光が書いた原稿などを渡すと、喜んで目を通してくれる。今回も、叔父に読んでもらえるように、早く仕上げておかなければ。
「また……読んでもらえない原稿を書くのは、寂しいですから……」
思わず口にした独り言に、ふと川端は眉をひそめた。
――また、とは?
記憶にあるかぎり、叔父が自分の出した文章を読まない、という事はなかった。まれに、多忙で後に回すことがあっても、必ず一読はしてくれる人だ。
「…………」
川端は、息を吐きながら額に手を当てた。静かな二人部屋に、時計の秒針の音が響く。靄が掛かったような頭の中に、その音だけが妙にちらついて煩わしい。
「あ……」
眉間に皺を寄せ考え込むあいだに、もうひとつの引っかかりに思い当たって、川端はちいさく声をあげた。妙といえば、横光のこともそうだ。いつもなら、別のことをしていても、面倒見の良い横光の方から、何かと理由をつけて様子を窺いに来ていた。しかし、偶然なのか故意なのか、ここ数日のふたりは、食事の時間と就寝前にしか、顔を合わせていない。
「利一……」
つぶやきながら彷徨わせた視界の中で、机の上に生けられた、ほの白いマグノリアの花が目に留まる。それは早朝に、川端の息抜きになれば、と横光が置いたものだ。
「……そうですね」
横光と顔を合わせれば、この妙な違和感の正体が分かるかもしれない。ちいさくうなずいた川端は、原稿用紙の散らばる机をそのままに、勢いよく席を立った。