名前のない楽園 2
「いつから……」
建物の奥に向かう廊下を歩きながら、川端はあらためて考えを巡らす。自分の記憶にあるかぎりでは、この別邸に訪れるのは毎年の事だ。もちろん、叔父にも横光にも、不審に思うところなど欠片もない。しかし、この妙な違和感と焦燥感は何なのだろう、と川端は深く眉をひそめた。辿る記憶は、それなりに鮮明だが、ところどころのディテールが、霞がかかったように曖昧だ。
「……っ」
進む先に壁を感じて、川端は足を止めた。顔を上げると、花熨斗の唐紙を貼った、趣味の良い襖が目に入る。考え事をしている間に、目的地に到着していたらしい。襖の奥を窺うと、おそらく横光だろう、人の気配がした。その気配に安堵の息を漏らした川端は、音をたてないよう、静かに襖を開く。
十畳ほどある書院風の和室は、裏庭を望む縁側に面している。今日は障子を開けているらしく、部屋の中は穏やか陽光で満たされている。その部屋の中で、横光はこちらに背を向けて、床の間に飾るであろう花を生けていた。手にしている菖蒲の深い花色と花姿は、横光に良く似合う。川端は、まだこちらに気付いて居ないその横顔を眺めた。深い菫の髪に、射るような黄玉の瞳。華奢で凛とした真っ直ぐすぎる姿勢は、その頑なさ故に、周囲の庇護欲を刺激する。そして、そのスカートの端から見える、足首の白い包帯に、ひどく心がざわつく。
――それは、本当に捻っただけのものだっただろうか
疑念と共に、ぐらり、と足元が歪むような感覚に陥った。
「…………」
気付いてはいけない、という思いと、早く気付かなければ、と相反する警告が、頭の中で響く。その声に急かされるように、川端はそっと畳に足を置いた。
「利一……」
「ん、川端?」
川端の、囁くような背後からの呼びかけに、横光が振り返る。川端は畳に膝をつき、振り返る横光の左手を握った。骨張ってはいるが、滑らかでまろい、少女の手首――懐かしい、と思うと同時に、これではない、と川端の記憶のどこかが声をあげた。
「かわばた……」
横光の肩越しに、花びらを散らす薄紅の桜。そして、その向こうには、柔らかに実をつけた橙が見える。何を、と言おうとして開きかけた横光の唇に、川端は自分のそれを重ねた。同時に、頭の中に掛かっていた靄が、緩やかに晴れていく。転生文豪、帝国図書館、浸蝕、潜書。
――此処は
桜が咲いて橙が実るなど、現実ではありえない。思い返せば、前庭では躑躅と寒椿が花を突けていた。いつだか、横光がこの場所を極楽浄土、などと呼んだことがあったが、あながち間違いではなかったのだろう。記憶を辿った川端は、頭の中で嘆息する。
――創られた世界《本の中》なのだ。
そうしているうち、二人分の体重を支えきれなくなったのだろう、横光の身体が後ろへ傾ぐ。そのまま、ふたりは畳の上へ、重なるように倒れこんだ。
「――っ、あ……」
川端が顔をあげると、こちらを見上げる横光と、視線がかち合う。川端は、横光の瞳から、感情を読み取ろうとするが、その輪郭は水に溶けるように滲んでしまう。瞬きをすると同時に、目蓋から溢れた水が、重力に従ってこぼれ、下にいる横光の額に落ちた。
「……すみません」
自分でも、理由の分からない行動に我に返った川端は、慌てて横光の上から退こうとする。しかし、その川端の頬に横光の右手がふれた。その手は、いつの間にか柔らかな少女のものから、肉の薄い男のそれに変わっている。懐かしくいとおしい、その指先のあたたかさ。
「り、いち……」
横光のその手は、もういちど導くように、とまどう川端の頭を引き戻し、二対の薄紅が、もう一度重なる。同時に、閉じた川端の目蓋の裏に、これまでの記憶が、明確な色と縁取りを持って描かれていく――
「大丈夫ですか?」
「――ああ」
川端の呼びかけに応える、座り込んだ横光の左足首は、赤い血の色に染まっていた。その横光の足首に、自身の手拭いを巻きながら、川端は密かに唇を噛む。
数日前に、帝国図書館に持ち込まれたその本は、浸蝕が激しく表題や著者が、まったく不明な状態だった。何度か潜書をしたものの、埒があかない。錬金術師の指示のもと、人員を入れかえつつ潜り、川端と横光もそれに加わっていた。
「川端は?」
「私は平気です……ただ……」
川端は、上がる息を整えながら、横光に返事を返す。
潜書中、浸蝕者たちと乱戦になり、横光が川端を庇うため前に出て、負傷したのだ。慌てた川端は、大丈夫だと言いながらもふらつく横光を、強引に引きずって追撃をかわし、なんとか息をついたところだ。
「……すみません」
ちいさくつぶやいた川端に、横光は笑う。
「手前こそ、勢いで前に出てしまった。結果として、川端にほとんどまかせて楽をしてしまったな」
顔色は良くないが、それでも茶化すような横光の返事に、川端も苦笑いを返す。
「本当に……私を過労死させないでください……」
「ああ、気を付けよう。それよりも、ここからどう動くかだが――」
「ええ……」
続けながら、川端は眉間にしわを寄せる。見える範囲に、一緒に選書していた者たちの気配はない。先ほどの乱戦で、ずいぶんと場所が離れてしまったらしい。それどころか、と川端は周囲を見回す。周辺は、墨に塗り込められたように暗く、自分たちが、どこにいるのかすらはっきりしない。横光の怪我の方は、潜書から戻ればどうとでもなるが、会派のメンバーと離れてしまっている現状では、元の図書館に帰還できるかどうかも怪しい。
「利一……」
「どうした?」
「いえ……私たちが出会った時のことを、覚えていますか……」
「ああ、ありがたいな」
川端の問いに、横光はゆるく微笑む。
横光がどう思っているか分からないが、川端としては、いま再び握ったこの手を離す気はない。盟友を失って、二十数年を独り歩いた川端のそれは、友誼や思慕の境を越え、もはや愛執といってもいいだろう。心の内でその執心を自覚しながら――しかし、それを悟られないよう、川端も穏やかな笑みを返す。
「ええ……貴方と出会えて良かった」
「手前もだ……」
くすり、と先も見えない暗闇に、二人分の場違いな笑みが響く。同時に、あまやかな香りが、川端の鼻先をかすめた。
「これは……」
「花の香り?」
「おそらく……」
同じく、それに気づいた様子の横光のつぶやきにうなずいて、香りの出所を探す。
そこで、川端の記憶はとぎれていた――
「――どこかで、気付いてはいたのです」
こぼれた川端の言葉は、静かな部屋の隅に転がって消えた。
開け放たれた和室には、かすかが梢の音だけが、静かに降り積もっている。これまでの記憶が戻ったためか、畳の上に転がる二人は、元の『転生文豪』としての姿を取り戻していた。
「このまま此処にいれば、貴方を亡くした過去も、『文豪』としての使命もなかったことにして、利一とずっとふたりでいられると……」
それでも、と川端は視線を落とす。川端の羽織の裾が、衣擦れのかすかな音をたてた。二人とも畳に倒れ込んだままで、川端は横光を組み敷くような格好になっている。眼下にある横光の胸が、穏やかに上下しているのを確認して、川端は思わず、横光の喉元に顔を埋めた。
「それでも私は、貴方に会いたかった……たとえ、貴方を無くした二十余年の孤独を、もう一度味わっても……」
柔らかな風が、庭から薄紅の花弁を運ぶ。淡く儚いそれは、風に乗って建物の中まで届き、畳の上の川端と横光の上にも、はらはらと花弁を降らせている。
「私の、盟友横光利一に……」
川端が、照れ隠しに横光の髪に付いた花弁を摘むと、下にいる横光が苦笑いをする気配がした。
「……手前も、気付かないふりをしていた」
部屋の隅に消えたはずの川端の言葉を、横光の穏やかな声が掬い上げる。
「ここでなら、貴女が不安に怯えることなく、穏やかにいられると」
「――それは」
「それでも、やはり貴方のことが気にかかっていた」
横光の手が、慈しむように川端の髪を梳く。
「小鳥が、側にいるようで……」
「……小鳥?」
口の中で繰り返した川端のつぶやきに、横光は微笑《わら》う。庭のどこかで咲いているのだろう、沈丁花の甘い香りが、柔らかな風と共に吹き込む。
「手前も、川端に会いたかった…………」
「ええ……けれど利一、いいのですか?」
川端は、きょとんとした顔で、こちらを見上げる横光を見つめ返した。
「私は……貴方が小鳥だと思っていたものは、猛禽かもしれませんよ」
「――望むところだ」
一瞬の沈黙の後、どちらからともなく笑みがこぼれる。花の舞う庭に、二羽の小鳥の囀りが響いた。
「――状況を確認しよう」
「ええ……」
さて、と畳から立ち上がった横光は、ぐるりと首を巡らせた。彼の帯紐につけられた房飾りが、しゃら、と音を鳴らす。
「手前たちは、持ち込まれた本に、調査と浄化の為に潜書をした。敵に出くわし、難戦の後、撤退――浄化はまだされていない」
「はい……おそらく、此処はまだ本の中でしょう」
「しかし、すっかり取り込まれていたな」
「ええ……」
川端も立ち上がり、羽織の襟元を整えながら、同じようにあたりを見回す。整えられた和室と、季節違いの花が狂い咲く、桃源郷のような庭。この場所に着いてからの記憶をたどれば、ハイヤーの運転手や、毎日顔を合わせているはずの家政婦の顔さえ、よく思い出せない。しかし、本の中だとすれば、それも道理だ。おそらく、彼らに対する描写は、元々の本文中に無かったのだろう。
「これも浸蝕者の手の内、ということだろうか」
「どうでしょう……浸蝕で本文が歪んでいる、というには世界がしっかりし過ぎてしています……」
「そうだな、我々を取り込むだけにしては、手が込んでいる」
同意する横光に、川端もうなずく。そう、浸蝕された本の中にしては、ここは驚くほど敵意がない。それどころか、この別邸の存在は、自分たちを、浸蝕されている本文から切り離しているかのようだ。
「むしろ私たちは、この行間に匿われていた、と言った方がいいかもしれません……」
言いながら、川端は先ほどまで少女――横光が座っていた場所を眺める。この世界の虚構に気づいたからだろう、床の間に掛けてあった深山幽谷を描いた掛け軸は、ぼんやりとした薄墨の何かが描かれているだけになっていた。
「しかし、いつまでもここにいるわけには」
「はい、出口を探す必要がありそうです……」
言いながら、ふたり揃って縁側から庭へ降りる。庭の端に近寄ってはみるものの、敷地の塀と生け垣に囲まれたそこに、不審な点はない。
「なかなか厳重だな……表に回るか」
「優しいですね……」
「歪んではいるが、浸蝕はされていない。壊してしまうには惜しいと思う」
横光らしい言葉に、川端が目を細めたとき。どこからか、古いインク特有の臭いが漂ってきた。
「――気づかれたな……だが、出口を探す手間が省けた」
「ええ……」
お互い、既に己の武器を握っている。川端がうなずいたところで、あ、と横光がちいさく声を上げた。
「どうしました」
「海に、いきそびれた」
「……貴方のそういうところ、好きですよ」
「なにか……不満そうな気配を感じるのだが」
「さて……どうでしょう」
他愛ない話をしている間にも、不吉なインクの臭いは強まっていく。背後にある橙の木が、青黒い色に染まり、ぱしゃりと水音をたてて砕けた。その音を合図に、二人の転生文豪は手にした武器を構えなおし、背後を振りかえる――
金属特有の硬質な音をたてて、川端の持つ戟の刃先がはじかれた。相手の追撃をかわすため、真横に飛び退いて、体勢を立て直す。戟の柄を握り直し、再び前へ出ようとしたところで、羽織の裾を強く引かれ、川端は後ろを振り返った。目線を落とすと、プリーツスカートが、黒く染まった野茨に引っかかっている。
「制服……?」
「川端!」
横光の呼び声に我に返ると、そこにあるのは男物の茶色の羽織の裾だ。ためらいなく引きちぎって、その勢いで前に出る。ひと突きしたのち、間髪入れず二撃目、三撃目を入れると、腐臭とインクの臭いを纏った浸蝕者は、霞のように散っていった。
「大丈夫か」
息を整えているあいだに、桜の近くで敵をいなしていた横光が、こちらに掛けてくる。
「ええ……そちらこそ、足の方は」
「大丈夫だ」
「貴方の大丈夫は、あまり信用できないのですよ……利一!」
目をそらす横光の輪郭に、少女の輪郭が二重写しになるのを見とがめて、川端は声をあげた。
「すまん、川端」
「いえ」
お互い残る敵との間合いを取りながら、背中合わせに会話を交わす。
「安定しないな」
「――ええ」
想定していたよりも、敵の数が多い。おまけに、一時なりとも本文中に取り込まれていたせいか、気を抜くと『女学生』の記憶と外見に戻ろうとしてしまう。そのせいで、現状は目の前の敵を捌いていくだけで、手いっぱいだ。
そろそろ正面突破はあきらめるべきか、と川端が横光と視線を合わせたときだった。金属が地を打つような音と共に、金色の鋭い光が、二人の前を駆け抜けていく。同時に側にいた数体の浸蝕者が、霧散した。音の出どころを探して、川端と横光が目を向けると、縁側の上に、ひとりの人影が陣取っている。
「……」
「あ……」
その姿を目にとめて、川端は目をしばたかせ、横光はちいさく声をもらす。
特徴的な目元、肩口で揺れるハーフアップの髪に、揺れるクラバット。面倒見と金払いが良く、世間慣れしていない、川端と横光の世話を、なにくれとなく焼いてくれる――
「……叔父さま」
「おじ……菊池さん」
二人の声を耳にした、叔父――もとい菊池は、ああ、とその目元をゆるませて、不敵に笑う。
「はいはい、おまえらの叔父さま、だよ。迎えに来たぞ、娘ども」
言いながら放たれた二撃目は、周囲の浸蝕者たちを一掃するのに、十分な威力だった――