名前のない楽園 3
「――そりゃまた、難儀しましたなぁ」
「まあ、まさか自分が女学生になるとは」
湯気の立つ湯飲みを揺らしながら、横光は織田の言葉に、しみじみとうなずいた。
帝国図書館の奥にある、文豪たちが集う食堂。朝食後、興味津々といった顔の織田にせがまれた横光は、先日行った潜書での顛末を語っていた。
「正直、菊池さんが来なかったら、まだ本の中で学生をしていたかもしれないな」
「ああ、さいですね」
うなずいた織田の話すところによると、乱戦中に行方不明になった――後に聞いたところでは、自分たちの推測どおり、浸蝕されていない行間に、はまり込んでいたらしい。川端と横光について、錬金術師と菊池が血相を変えて、浸蝕の対応や、居場所の特定などをおこなっていたという。
「やはり、大事になっていたのか……」
はあ、と天を仰ぐ横光に、テーブルの向かいに座った織田は、まあまあ、と笑いかける。
「お二人とも普段から良い子やさかい、心配もしますやろ」
「それについては、思うところもあるが……それで、菊池さんが来てくれたのか」
ええ、とうなずいた織田は、湯飲みに入った煎茶を啜る。
「なんにせよ、ご無事で良かったです。ごっつめずらし体験できましたね」
「新感覚だった……川端には、良いインスピレーション元になったかもしれん」
「あー、川端センセはお好きそうです、そういう雰囲気」
「太宰君も好きそうじゃないか?」
「あ、わかります?」
くつくつと笑いながら、織田は自分と横光の湯飲みに、急須の茶をつぎ足した。時間を外しているので、食堂の中にいるのは、織田と横光だけだ。互いの友人を肴にして、ひとしきり笑いあっていたところで、二人の背後の扉が開き、川端が顔をのぞかせた。
「……準備ができました、利一いきましょう」
「あれ、お休みちゃうんです?」
「ああ、せっかく休みをもらったので、出かけようと思ってな」
「ええ、海へ……」
きょとんとした織田に、立ち上がる横光と、それとわかるよう笑った川端が答える。ほんならお気をつけて、という織田に手を振られ、川端と横光は駅へと向かった。
到着した砂浜は人もまばらで、波の音だけが響いていた。
「……これで、約束は果たせましたね」
「ああ、やはり本の中でない空は気持ちが良いな。菊池先生が来られなかったのが残念だが」
波打ち際を歩きながら、横光がかるく伸びをすると、隣を歩く川端がかすかに微笑した。
「まあ、本人はいませんが、お財布はこちらに来ていますし……」
「……川端、先生が良いと言っても、あまりねだるなよ」
「必要なものしか頼んでいませんよ」
「…………」
線の細い儚げな青年の、しかし少々図太い微笑みに、苦笑いをこぼした横光は、明後日の方向へ視線を向ける。どうやら、本文に取り込まれていたからといって、本質には影響がなかったらしい。帰り道は、骨董屋の前を通らないようにしよう。そう胸中で密かに誓った横光に、川端が声をかける。
「そういえば先日の本、詳細を聞きましたか……」
「ああ、確か、少女小説だったとか」
「ええ……」
本の中の、穏やかで美しい日々の記憶は、まだ横光の頭の片隅に残っている。
錬金術師曰く、元々歪んでいた行間が、川端と横光の干渉を受け、違和感のない形で完結しようとして、先日のような事態になったらしい。
「――つまり、白紙の原稿用紙に、私達が無意識で執筆していたようなもの……ですか」
「ああ、そのようだ……もっとも、セーラー服を着たいとは思っていなかったのだが」
「そうですね……でも、なかなか似合っていましたよ、おねえさま」
「それは、言わないでもらいたい」
思わず渋面をつくる横光に、ふふ、と川端は笑う。
「機会があれば、また見たいです……」
「川端まで、同じ事を言わないでくれ」
「それは……もしや織田さんに?」
大きくうねった波の飛沫が、ふたりの足先を濡らした。とっさに足を引いたものの、濡れてしまった爪先を上げながら、横光は苦笑い混じりに答える。
「次があれば是非自分もと、何なら今からでも、と言われてしまった。まあ、彼らしい冗談だろうが」
それでも、あまり上手くもない自分の話を、わざわざ聞きに来てくれたのだ。それに織田は――彼本人と関わっていたわけではないが、自分を慕う後輩だ。性分として、つい構いたくもなる。ついでにいうなら、先日の本の中でも、それなりに親しい間柄だったようだ。そう横光が笑いながら告げると、対する川端はため息交じりに声を吐いた。
「やはり貴方は、私がどこかに閉じ込めて、側においておいたほうがよい気がしました……」
「ええと、それは……光栄、だな?」
とりあえず頷いた横光に、毎回素直に絆《ほだ》されないでください、と川端は肩を落とす。その肩越しに、淡く滲む水平線を捉えながら、横光は口をひらいた。
「川端、続きを書かないか」
「続き?」
遠くで、飼い主が犬を呼ぶ声がする。
「歪んだ行間ではない、ここから――」
尻尾を振る大型犬が、川端と横光の横を嬉しそうに駆け抜けていく。その様子を見つめる川端に、いつかの小鳥の影を感じて、横光はちいさく笑う。
川端があの不完全な行間に託した主題が、盟友横光利一を独占し、失う不安のない世界。というなら、自分がその行間に託した主題は、己が先に逝くことで生じてしまった、川端康成の不安の影を取り払う世界だ。しかし、少女小説という枠の中で――しかも強引に歪んでしまった行間では、主題自体が成立し得なくなってしまった。だが、現実の世界ならば、話は別だ
「たとえ、花の咲かない庭でも……手前は、川端の側にいよう」
「……本当に、毎回素直に絆《ほだ》されていると、いつか痛い目をみますよ」
「そのときは、川端がなんとかしてくれるだろう?」
「…………」
横光の言葉に、川端の返答はない。それは、ふたりの暗黙の了解だ。そのかわり、横光の指先と、川端の指先が小さく触れる。触れあう二つの指先がゆるやかに絡まり、やわらかく握りあった。
「……何か買って帰りますか、手土産でも」
「そうだな、せっかく小遣いも持たせてもらったし、手をつけずに帰ると――」
「帰ると?」
首を傾げる川端に、横光は笑う。
「叔父さまに、小言をいわれてしまう」
川端のちいさく吹き出す声を皮切りに、二人分の笑い声が、おだやかな波打ち際に響く。
「そうですね……」
「ああ」
かたん、という揺れと、どこからか漂う甘い焼き菓子の香りに、川端の意識が浮上した。
柔らかな光を感じて目蓋を上げると、見慣れた電車の車内。車窓から見える町並みは、黄昏に染まっている。平日の夕方とあって、車内に乗り込む人影も、時間と共に増えてきていた。
「…………」
どうやら、電車の揺れが心地よく、うたた寝をしてしまったらしい。
川端は羽織の裾を整えながら、それとなく停車駅を確認する。さいわい、川端が眠っていたのは数分だったようで、目的の駅はまだ先だ。目線を移すと、紙包みを膝に置いた横光が、安らかな寝息を立てている。
師匠からの小遣いには、まだ余裕があるが、乗り過ごしてタクシー代にするとなると、隣で寝ている横光の小言が厄介だ。乗り過ごさなくて良かった、と安堵の息をつきながら、横光の膝で落ちそうになっていた紙袋を引き取り、自分の手元に置く。先ほど感じた焼き菓子の甘い香りは、これだったのだろう。包みの中身は、横光が駅前で購入したクッキー缶だ。
「……優しいですね『利一おねえさま』は」
邪気のない、まだどこか少女めいた横光の寝顔を見つめて、川端は苦笑いをこぼす。その気配を感じたのだろう、眠っていた横光がかすかに身じろぎして、川端の肩にもたれかかった。
「…………」
その様子に、川端は砂浜での会話を思い起こす。筆先だけでは思い通りの花も咲かない、生前の重苦しい記憶も、厄介な人間関係――目下のところは、無頼派の赤毛と三つ編みだろうが。の波風もある。それでも、隣の友人と共に歩くそこは
「……楽園、ですかね」
電車特有の、単調な揺れと音、肩に掛かる横光の体重を感じながら、川端はちいさく微笑んでつぶやく。
その楽園の名前《題名》は、まだない。