楽園を模した額縁
※『名前のない楽園』に入らなかった幕間瞼を上げるより先に、ちいさな雨音が耳に届いた。
眠気を振り切って目を開けた先。薄暗い窓辺と、そこから聞こえる水音に、川端はベッドの中で小さく眉をひそめる。ここにきてから、ずっと雨の日が続いている。部屋の薄暗さは、朝早いせいもあるのだろうが、この雨音では今日も一日雨のようだ。
「利一……残念ですが……」
同じベッドで寝ている横光に、今日も雨です、そう続けようとした川端の言葉は、途中で途切れる。寝返りを打った先には、いつもなら真っ先に目に入るはずの、菫色の直毛が見当たらない。川端の左隣、いつも横光が眠っている場所のシーツは、そこに誰もいなかったかのように、整えられている。
「…………」
川端は起き上がって、左のシーツを抱き上げ、ほう、と息を吐いた。探るシーツには、わずかだが、温かな体温の余韻が残っている。時計を見ると、まだ早朝になったばかりの時間だ。シーツを整えていったということは、すぐに戻る用事ではないのだろう。
途切れない雨音の響く暗い部屋は、おそろしく静かで、どこか寒々しい。こんな日にこそ、あの陽光のような、黄玉の瞳を見たいのに。そんなことを思いながら、川端は天井を仰ぐ。
横光が、自分を寝かせて行ったということは、二度寝をしても構わないのだろうが、もう目がさえてしまった。ひと呼吸つけた川端は、よし、とちいさく呟きながら、ひんやりとした床に足を降ろした。
着替えと簡単な身支度を整え、川端は部屋を出る。扉を開けた先の廊下は、まだ薄暗い。しかし、その廊下の奥からは、ふわりとした甘い匂いが漂ってきている。
「……ん」
どこか懐かしく温かいいような匂いに、川端は首をかしげながら、廊下を歩く。
匂いをたどって行き着いた先は、案の定キッチンの前だ。そっと覗き込むと、調理台の前に人影があるのが分かる。どうやら、フライパンの上で、なにか焼いているらしい。よく見ずとも、その人影は、川端が探していた菫の頭だ。こちらに向けた背中では、エプロンのリボンが縦結びになっている。
「利一?」
「か、川端」
作業に集中して、こちらに気付いていなかったのだろう。川端の呼びかけに、横光は慌てたように振りかえる。うろたえる横光の手元で、まだ中身が入ったボウルとレードルが、かしゃんと音をたてた。
「――ホットケーキ、ですか」
「その、川端が起きる前には、出来上がるはずだったのだが……」
川端の言葉に、横光は悪戯がばれた子供のような返事をする。その様子を眺めながら、川端は、ああ、と記憶を思い出す。
いつぞや、駅前にある喫茶店の名物メニューについて、話したことを覚えていてくれたのだろう。照れたように視線を泳がせる横光の姿は、背後にあるスペインタイルの花模様とあいまって、ひどく可愛らしい。
「なかなか、返しが上手くいかなくてな」
そう口にする横光の視線をたどれば、フライパンの隣に、丸というには少々無理がある、いびつなホットケーキが三枚ほど積まれている。そのホットケーキが、友人の実直な優しさを体現しているようで、川端は目を細めた。
「……これ、朝食にいただいても?」
「もちろん、そのつもりだった。出来はあまり良くないかもしれないが」
はにかむような横光の苦笑いに、川端もつられて笑う。
「廊下まで良い匂いがしていましたよ」
「味のほうも良いと嬉しいんだが」
言いながら、横光はレードルに掬った生地をフライパンに流し込む。
「川端、もう少し待っていてくれ、いま焼いているので最後だ」
最後は上手く返してみせる、と意気込む横光に、川端もはい、とうなずく。うなずきながら、川端は横光の後ろに回って、縦結びになっている、エプロンのリボンを結び直した。この、一見しっかりしているようで、どこか不器用で抜けている――本人は、しっかりしているつもりのようだが。友人の世話を焼けるのは、自分だけだろう。そう思うと、自然に口の端が上がる。
「後ろ、曲がっていますよ……」
「ああ、川端――ありがとう……」
「――利一?」
結び終えて顔を上げると、当の横光は下を向いて何かしている。首を伸ばして前をうかがうと、どうやら横光は、抱えたボウルに残った生地を、指先で掬って舐めているらしい。
「何してるんですか……」
子供のようなそれに、川端が思わずたしなめるような声をあげると、いや、と平然とした声が返ってくる。
「もう一枚焼ききれる量でもなし、もったいないだろう」
「それは分かりますが……後輩たちに見せてあげたいですね」
「他人の前ではしないからな」
この場の言い訳だとしても、川端は横光にとって、当然の如く他人の括りに入らないらしい。ささやかな満足感に高揚する気分を押し隠し、まったく、と川端は苦笑い混じりに息をつく。すると、目の前につい、と生の生地が付いた指が差し出された。舐めてみよ、ということだろう。
「なかなか甘いんだ」
「……」
同年代の少女よりも、やや大きく、けれどすらりとした、横光の人差し指を舌の先でなぞると、ほんのりとした甘さが、川端の口の中で解けていく。
「――まあ、否定はしませんが」
川端は、言葉を濁しつつ顔を上げる。甘いはあまいが、小麦粉のダマと溶いた玉子は、やはり生で食すのに向いていない。けれど、そうだろう、と無邪気に笑う顔を前にしては、それを強く主張するのも躊躇われた。
呆れながらも目線を落とすと、横光の抱えるボウルには、まだ半端な生地が、そこそこ残っている。
「利一」
そんなに美味しいと言うのなら、と川端はちょっとした意趣返しと悪戯心で、ボウルに入った生地を、中指と人差し指で絡め取り、横光の口の前に差し出す。
「では、貴女もどうぞ」
川端としては、横光の抵抗を予想しての仕草だ。しかし、予想に反して、横光は素直に川端の指先を口に含む。
「…………」
あっけにとられ、一瞬硬直する川端をよそに、横光はそのまま、川端の指の腹に舌を這わせる。
「ん……」
ちいさく聞こえる、横光の吐息と指先の感覚に、体温が上がる。
自分から焚きつけた手前、今更悪戯でした、と手を引く訳にはいかない。川端は内心の動揺を隠し、横光の顔をうかがう。当人が甘い、と評して人に勧めるほどなのだ、本当に舐めるのが苦でないらしい。ときおり角度を変える口元は、楽しげに微笑み、その伏せた睫からのぞく、とろりとした黄玉の瞳は、食卓の上に置かれたハチミツのように、甘い色をしている。
「――利一」
「んん……」
川端の、指の付け根まで絡められた余り生地を、横光は持ち前の生真面目さで、きっちり舐めとろうとしているようだ。真剣な眼差しと仔犬のような姿に、愛しさと、庇護欲、薄暗い支配欲と優越感が脳内に広がる。
「もう……」
もう良いです、と言おうとした川端の言葉は、背中を走る、ぞく、とした感覚に遮られて、喉の奥から出てこなかった。
もとより、この屋敷の中は川端と横光の二人きりである。家政婦が来るのは昼からで、一報さえ入れれば、キャンセルできるだろう。いっそ、このままずっと二人で――そう、窓の外から聞こえる雨音を背景に、熱に浮かされたような、甘ったるい考えが、川端の中を巡る。
指先から伝わる横光の舌の熱さ、食卓に寄り添い並ぶ、メイプルシロップとハチミツ。スペインタイルの花柄、ホットケーキの香ばしく甘い匂い――いや、香ばしいをすぎて、むしろ、これは焦げ臭い。
「……あの……利一……焦げてません?」
「っふ……え、あ、ああっ」
指を離す横光と一緒に、慌てて火を止め、蒸気を吐き出すフライパンをのぞき込んだが、一歩遅かったようだ。薄いクリーム色だった生地は、すっかり遊び疲れた、黒い毛並みの子犬色になっていた。
「すみません……」
「いや……」
食卓に並べられた二枚の皿には、それぞれいびつな形と、しょんぼりした黒い仔犬のホットケーキが重ねられている。
フライパンから救い出した後、どうにかならないものかと試行錯誤したが、あまり芳しい結果にはならなかった。わずかばかりの対策として、川端の皿にはハチミツ、横光の皿にはメイプルシロップ。それぞれに、ケーキが浸るほどかけてある。
「――食べられない、味ではない……か」
ひと口食べた横光が、視線を中に彷徨わせながらつぶやく。その生真面目で真剣な様子に、思わず笑みをこぼしながら、川端もうなずく。確かに、多少生焼の気配と、焦げの食感はあるが、ハチミツと併せてしまえば、食べられる範囲だ。
「ええ……良い味ですよ……貴女の方のもいただいても?」
「ああ」
横光の皿のひとかけが川端の皿に、川端のひとかけが横光の皿に。ハチミツとメイプルシロップの甘い欠片が、食卓の上で交差する。
「約束する、次はもっと上手く創ろう」
「楽しみにしています……でも、生地の残りを舐めるのは程々にしておいてくださいね」
「…………」
「……目を逸らさないでください」
くすくすと笑いあう二人の皿の上で、甘いハチミツとメイプルシロップが、とろりと混じり合う。
窓際からの雨音はまだ続いているが、川端の手元の明るい白皿の上では、陽の光を溶いて落としたような、溶け合うハニーメイプルが、甘く揺れている。
川端はちいさく笑いながら、最後のひとかけを口に入れた。
横光へのいろんな感情でぐるぐるしてる川端と
そのぐるぐるしてる感情を見せられても、それも良いかなってなる横光と
それを見た川端が、盟友とはいえ、この人いろいろ大丈夫だろうかと
さらにぐるぐるする新感覚が好きです。