連ねる詞は深くしてなお嵐にも似て――





「泣いてはいけません」
 不意に掛けられた母の声に、考え事をしていたメアリーは、顔を上げた。

 狩猟の拠点として建てられた、ベッドフォードのこの城は、それなりに大きく豪華ではあるが、石造りの壁が寒々しい。狩猟の季節には、大勢の王族、貴族や使用人、海外の大使などで人が行き交い、華々しい社交の場となる。しかし、2月の今この城には、メアリーと母、そして二人に付き従う数人の女官と使用人しか居らず、閑散としている。
 その一室、母の背にする窓の外には、森が広がり、その上空をイングランド特有のどんよりとした雪雲が覆っていた。
「泣いてはいけません、メアリー」
 ゆっくりと近づいた彼女は、メアリの手を取ると、母キャサリンはもう一度、メアリーの顔を見ながら言う。
幼い子供に言い含めるような、威厳ある優しい響きだった。
その声に、思わず溢れそうになる涙をこらえて、メアリーは、でも、と震える声を上げた。
「お母様 父上は間違っておいでです」



 メアリーの父、イングランド国王ヘンリー8世は妻キャサリンに男子出産の期待が無いと判断するや、強引に離婚の手続きを進め、メアリー母娘を王宮から追い出し、ベッドフォードにある、王家の狩猟場の一つ、アンプティルにある城へ追いやった。
 そして、メアリーが17歳になったこの年、ヘンリーは、キャサリンとの結婚を、無効の結婚だったとして離婚を強行。
 現在、キャサリンの後釜には、ヘンリー八世の愛妾であり、その女児を出産したアン・ブーリンが居座っている。

「アンがお母様の恩を忘れるようなことをしなければ…」
「メアリ」
 苦々しく唇を噛むメアリーを、母の声が窘めた。
 ――けれど、とメアリーは声には出さず抗議する。
 アンは元々、キャサリンの侍女だった。フランス帰りで、イングランドの宮廷に馴染めなかったアンを、何かにつけ気にかけ、世話を焼いていたのは他ならぬ、キャサリンだった。
メアリーとしても、フランス帰りの博識で快活な彼女を、歳の離れた姉のように思っていたのだ。
「……それなのに」
 それなのに、だ。
あろうことかアンは、キャサリンの物である正妻の地位を奪い、メアリーの王女としての称号と地位を剥奪させた。
そして数日前には、王宮からの使者により、キャサリンとメアリーを別居させる。という決定がこの城へ、届けられている。
 アンが普通の愛妾ならば、王女という立場での抗議も出来たが、離婚が成立し、庶子となってしまったメアリー母娘には、この決定に口を出すことができない。
アンとその子供は、ただの地方の田舎娘で、自分と母は、スペイン王家の正当な血筋だと言うのに――

 悔しさで俯いたメアリーの髪を、キャサリンの掌が撫でた。
「お母様……」
「おばあさまが女王になった時の話を、覚えていますね」
「はい」
 唐突な母の言葉に、戸惑いながら頷いた。
キャサリンの母であり、メアリーの祖母は、スペイン女王イサベルその人だ。
メアリは高名な祖母に会ったことはないが、その逸話は母や、周囲から幾度となく聞いている。
「おばあさまも、一度は王家から遠ざけられ不遇を強いられましたが、その英明と功勲でスペインを大国へ導く女王となりました」
「はい」
口元に笑みを浮かべ、誇らしげに、若かりし頃の祖母を語る母キャサリンを見て、メアリーも幾日かぶりに笑みを溢した。

 母は、祖母の事を聡明な女王として、憧れをもって語る。
けれども、メアリーの母キャサリンとて祖母に引けを取らない、容貌と才覚の持ち主であるのだ。
彼女の美しい金髪と顔立ちに、幾人かの絵師は彼女をモデルに絵画を描き。ヘンリーが遠征中に起こった、スコットランド軍の侵攻を、摂政として指揮を取り、国王不在のイギリスを見事に守りきった。
そしてその、生まれ持っての教養と物腰に、今も彼女を敬う民衆や女官は多い。勿論メアリー自身も、キャサリンを尊敬する人間のうちの一人だ。

 だから、とメアリーの笑顔に安心したかのように、母は眼を細め、娘に笑いかける。
「大丈夫、まだ何とでもなります」
「はい」



 扉の向こうで話し声がした。
 王宮から、再び使者が来たのだろう。今度は何を告げるつもりなのだろうか。
メアリーは無意識に眉を寄せ、扉に向かおうと歩き出そうとした。
そのメアリの腕を、キャサリンはそっと握る。そのまま、母はメアリーを抱き寄せた。
 暖かく柔らかな胸元が、メアリーの頬に触れる。
太陽が沈まぬ国と謳われた、南欧の地から英国に嫁いだ母キャサリンは、まるで故郷の土地のように、いつも暖かな体温をしている。対するメアリーは冷え症で、夏でも足元が冷える日があった。
「おかあさま?」
突然の抱擁に驚いて、まるで子供の様な発音をしながら、メアリは母の顔を見上げる。
腕の中から見た母は、今までメアリが見たことのない、真剣さと威厳を湛えていた。
 良いですか、とメアリーを胸に抱き、厳かにキャサリンは告げる。
「――忘れてはなりません、たとえ、この国の王妃と王女の地位や称号を失おうと、私も貴女も、誇り高きスペイン女王イサベルの娘と孫です」
それに、とキャサリンはメアリーの瞳を覗きこんで、今度は少女のように笑った。
「貴女はおばあさまに似ているわ、小さいころから意志が強くて…少し頑固で、特に目元がそっくり」
「…お母様」
「女官たちにも、言ってありますが、くれぐれも身体には気をつけて」
「はい」
「すぐに、また会えます」
 女官が扉を叩く音がした。
 キャサリンは優しい手つきで、メアリーの乱れたドレスと髪を直す。
そう、王家の者として、このような局面で取り乱すような事は、あってはならない。
メアリーは、祖母の偉業と、母の言葉を反芻して、深く呼吸をする。

「参りますよ、メアリー」
「はい 母上」
 王妃としての威厳と、余裕をもって笑いかける母に、こちらも笑いながら頷き返し、メアリーは扉に向った。



 1534年5月、キャサリンの身柄はキンボルトン城に移され、娘との面会、文通は禁じられた。
 1536年1月7日、キャサリン、キンボルトン城で崩御する。メアリは、母の葬儀への参列は認めらなかった。
 キャサリンの葬列には、彼女を慕う多くの民衆が参列した。



 メアリーの手元に残されたのは、毛皮、そして金の鎖と十字架、それで全てだった。
「お母様……」
 メアリは、母の遺品であるクロスを手に取った。
暗い部屋で、蝋燭の幽かな灯りに輝くそれは、母がイングランドに嫁ぐ際、母国から持参したものだ。
スペインで作られたクロスは、豪奢で緻密な細工を施され、握りこんだメアリの掌に、痛いほどに食い込む。けれど、メアリーは力を緩めなかった。
 結局、母と娘は顔を合わせる事も、手紙を交わすこともできなかった。
伝え聞いた所によれば、母キャサリンは、その最後まで、スペイン王女として、イングランドの王妃として、民衆から慕われていたという。

 どこか遠くから、子供の泣き声が聞こえてきた。
おそらく、母を王妃の座から追い落とした、あの娘の子供だろう。
 ――あわれな子供だ、とメアリーは思う。
エリザベスと名付けられた、アン・ブーリンの娘は、遠からず今のメアリーと同じ立場になるだろう。
キャサリンの他界した数週間後、アンは男児を流産していた。
ヘンリーはこのことにより、急速にアンへの興味を失い、キャサリンの時と同様、無効結婚として、処理するつもりらしい。
 既にアンの兄弟に、密通幇助の嫌疑がかけられている、と女官達の間で噂になっている。
アンの密通が事実であれ、父が結婚無効にするために作った口実であれ、彼女の娘のエリザベスは、メアリーと同じく、母と引き離され、庶子として育てられる事となる。
メアリーには、まだ後ろ盾ともいえる、スペインがあるので、それなりの交渉と待遇が期待できるが、異母妹エリザベスにはそれも無い。
 それもこれも、あの男――父であるヘンリーが悪いのだ、とメアリーは思う
元はと言えば、母はヘンリーの兄の妻だったのだ。それを持参金と、母の容姿に目を付けた、祖父と父が、兄の嫁を娶る近親婚に、特免状を取りつけてまで、強引に再婚を進めた。
その結果が現状である。

「……泣きません、お母様」
 これをそのままにしておけば、メアリーやエリザベス、その母達の様な悲劇は後を絶たないだろう。
まずは、この混乱し、国王に都合の良いばかりになっている宗教を正さねばならない。
男子誕生に固執する、あの男の都合などはどうでも良いが、正当な信仰を授けられない、この国の民衆が哀れだ。
「まずは、現状を知らせなければ」
 母と母国スペインとの、やり取りを邪魔していたアンは失脚しつつある、今ならスペイン王室との連絡も、円滑に進むだろう。
 このまま、男子が産まれなければ、スペインを後ろ盾に、メアリーが王位継承権を主張できる。そのまま、上手くスペイン王室と繋がることが出来れば、この乱れた王室や宗教に振り回されるイギリスを救うことができる。
 ――たとえ、このイングランドをスペインの下に売り渡す事になったとしても。

 どうせなら、手紙と一緒に、肖像画の一枚も送っておくのも良いかもしれない。
メアリーには、母譲りの金髪と、祖母に似ているという顔立ちがある。情に訴えるのも一つの手だ。
 話によると、祖母イザベルは、祖父が他界したその日のうちに、幽閉されていた城から喪服を纏い、祖父の城まで単身、馬で乗り付けた。そして、それが後の王位継承の決め手になったと聞く。
「泣きません」
 自分は、敬虔なるカソリックのスペイン王家の血を引く者にして、誇り高きイングランド王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘なのだ。
 メアリーはもう一度、掌のクロスを握って、女官を呼ぶために扉を開く。
 開いた扉から、一段と大きく、子供の声がする。

 アンの娘と思えば憎らしいが、同じ立場の妹と思えば、いずれ愛せる日も訪れるだろう。
 いつか彼女と、母の母国スペインの地を踏む事が出来るかもしれない。
 そう思いながら、控えている女官に声をかけた。



 1553年7月19日、即位を宣言。
 1554年7月20日、スペイン王フェリペ2世と結婚。

 この結婚により、メアリーはイングランドをスペインに売り渡した女王として多くの反発を受け、後世酷評される事となる。
同時に、メアリはプロテスタントを迫害し、多くのプロテスタント信者を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」とも呼ばれることになる。

 しかし近年、メアリー1世の治世に対する極度に否定的な見方は緩み、彼女の功績も新たな角度から、再評価がなされつつある。



参考文献
「英国王室史話 上」森護 著 中央公論新社〈中公文庫〉

お題提供:ハチノス
  『連ねる詞は深くしてなお嵐にも似て』
 

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