やさしいやさしい舟の上で
本編終了後の静岡組


人影のない購買前ホールに派手な音を響かせて、缶ジュースが自販機の取り出し口に落ちてくる。
よっこいしょ、と外見に似合わぬ声を出しながら、クロシオは缶ジュースを取り出した。
サーバー内の季節は5月終の終わり。夏に近づき始めた日差しの中で、冷えたスチールが心地良い。壁の時計は常ならば生徒で賑わう15時20分を示していたが、今日は土曜日とあって彼の姿しかない。

さて、とクロシオが手にしたメモに目を落とすのと同時に、背後から声がかけられる。
「お、クロシオ、生徒会の会合か」
「クラシゲ先生」
振り返れば、白衣を纏った理科教師がサンダルを引きずりながら、こちらに向かってやってくるところだった。
「はい、文化祭の資料準備を早めにやっておこうと思いまして」
「一人でか」
「いえ、イリエ先輩も一緒に」
今は休憩ついでのお遣い中です。
と笑いながら片手のメモ用紙を掲げれば、クラシゲも納得したように苦笑いをこぼした。
「後は飲み物だけか」
「はい」
しげしげとメモを眺めたクラシゲは、白衣の裏ポケットから小銭を出して自販機のボタンを押す。
「ありがとうございます」
「俺も手伝ってやれればいいんだがな」
落ちてきたアップルティーをクロシオに手渡しながら、忙しくてなぁ、というクラシゲの声に、僕らの仕事ですから、とクロシオは笑って答える。
実際のところは、リザレクションシステムの改良会議に今後のセレブラント狩りの準備であり、文化祭の資料準備は、生徒会役員が集まる為の口実兼ついでである。下手に教師に手を出されては進められるものも進められない。
あまり根を詰めすぎるなよ、と言う言葉に、はい分かりました、と優等生の返事を返してクロシオはホールを後にした。


現役の生徒会役員数に対しては、やや広い生徒会室では、大きくとられた窓から午後の日差しが眩しいほどに差し込んでいる。
生徒会室へ入ったクロシオは、室内の眩しさに一瞬目を細めつつ、誰も居ない生徒会室を突っ切り奥の準備室のプレートがかかった扉に手をかけた。
「ただいま、今そこで…っと」
言いながら準備室の扉を開けて、慌てて続けようとした言葉を飲み込む。
部屋の中では、相方であるイリエが机に上半身を預けて、寝息をたてていた。
一瞬何かあったのかと身構えたが、スクールベストに包まれた薄い背中が、呼吸と一緒に微かに上下しているのを見止めて、安堵の息を吐く。
彼が部屋を出る前に手を着けていた仕事が一段落して、帰りを待つ間に眠ってしまったのだろう。手前に積んだ書類の付箋には几帳面な、けれど女子らしい柔らかな筆致で、残り作業はナンバリングスタンプのみ、という旨が記されている。昔から彼女の仕事には隙がない。

クロシオはとりあえず缶ジュースを日陰になっている机の上に置いて、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
開けた窓から入る五月の風が薄いカーテンを揺らして、小波のように光と陰が入れ替わる。
向かいで眠る少女の胸元のリボンが風にそよいで、やっぱりイリエには青が似合うなぁ。などと、クロシオは十数年前の彼女のホロスーツ姿をしみじみ思い出す。
けれど、現在目の前で眠る彼女の姿もそれを眺めるクロシオ自身の姿も、記憶の中の姿と寸分違わぬ十代のままだ。
「良いんだか悪いんだか・・・」
苦笑いをしながら寝ているイリエの顔を覗きこむ。
女性の寝顔を覗き込むのは、あまり褒められた事ではないのだろうが、彼女と自分は長年の腐れ縁、お互い今更取り繕うような体面もない。
学内ではクールな上級生として、一部の下級生に密かな人気がある彼女だが、目の前で無防備に寝息をたてている顔は、日向で寝入ってしまった子猫のようだ。
元々あまり感情を表に出すようなタイプではなかったが、最近は険しい表情と心配そうに眉根を寄せる姿ばかり見ていた様に思う。
「・・・原因は、やっぱり僕か」
全部とまでは行かないけれど。
傍らで彼女が、何かと自分の事を心配して気にかけてくれていたのには気づいていたが、結局は自分自身の事に手一杯で、彼女に何のフォローもしていなかった。
手間をかけてごめん、と口の中で呟いて、起こさないように気をつけながら書類を引き寄せ、ついでに彼女の頬にかかっていた髪を払ってやる。

けして少ないとはいえない犠牲を払ったが、当面の敵の出所は潰した。リザレクションシステムの製造、改良も進んでいる。まだまだ先は不確定だが、状況は確実に明るい方向へ無かっている。
自分達が何の心配もなく、こんな風に教室でうたた寝できる日もそう遠くないだろう。
「お疲れさま」
まどろむ彼女にそっと労いの言葉をかけ、クロシオは自分用に買った缶ジュースのプルタブを開ける。ソーダの淡い香りが準備室に広がった。

「やっぱり甘いな」
ジュースに口を付けつつ、いつもの緑茶じゃないから、と彼が照れ隠しに口にした独り言は、柔らかなカーテンの波間に紛れていく。
壁の時計は15時30分を回って、遠くから運動部の掛け声が聞こえはじめた。
「なんか…船の上みたいだな」
部屋を見渡せば、光の波と小さく聴こえる炭酸の泡の弾ける音が穏やかな渚の様に室内を満たしている。
目の前でたゆたう淡い波間を見ながら、ソーダの缶を揺らしてクロシオは笑みをこぼした。





『やさしいやさしい舟の上で』
お題提供: 約30の嘘



イメージBGMはスピッツの『渚』
一つ前の「夢でも膝を〜」と対になる様な雰囲気。
いちいち口に出す一言多いクロシオと、ほぼ頭の中で完結しちゃうイリエさんの言動の差。