シュレディンガーの猫/ねぇどこにいるのあなた 1
――どこかでワイングラスが触れ合うような音がした。
「えっ」
唐突に浮かんだ思考に動揺して、エマは思わず声を上げた。そして、手に持っていたダンボール箱を、取り落としそうになって、慌てて身を乗り出す。
幸い、箱はティッシュ箱程度の大きさで、軽いものだったので、下に落とすことは無かったが、踏み台替わりにしていたパイプイスの上で、足がもつれ、思わず悲鳴を上げる。
「きゃあ」
「……?」
生徒会室の硬い床に落ちるのを覚悟して、目を瞑ったエマだったが、予想外の柔らかな感触に、おそるおそる目を開ける。
「大丈夫?」
「はっ、あ、あの、会長!」
どうやら、尻餅をついた自分と床との間に挟まれた男子生徒が、クッションになってくれたらしい。
しかも、その生徒は、エマが日頃思いを寄せている、舞浜南高校の生徒会長である、シマその人だ。
思い人を、文字通り尻に敷くなんて、とエマが、ひとりで赤くなったり青くなったりしていると、もう一度体の下から声がした。
「エマ君、大丈夫?」
「あ、はい、すみません」
エマは慌てて、スカートの裾を直して立ち上がる。
「ありがとうございます、会長こそ大丈夫ですか?」
「ああ、君の方は?」
「はい、会長のおかげで」
答えを聞いた彼は、床に座り込んだまま、良かった、と眼鏡を掛け直して、柔らかに笑う。
普段はぼんやりしいて、生徒会でも会長として、どうかと思う影が薄いシマだが、こういう時の思い切りの良さと、紳士的な物腰は、他の生徒には真似できない。
そういう所が、素敵なのよね。
そうエマは、胸中の恋心をかみしめつつ、彼が立ち上がるのに手を貸す。原因が自分なのが不本意だが、これは役得だ。
「何か、探し物?」
「はい、ちょっと…」
シマは、バランスを失って倒れてしまったパイプイスと、彼女が身を乗り出していた、資料棚の上を見比べて、尋ねる。
どうやら、エマの悲鳴を聞いて、慌てて来てくれたらしい。普段は閉めてある、流し台のある準備室と、生徒会室を繋ぐドアが開け放されていた。
「この上って、何かあったかな?」
「はい、あの……あれ?」
「エマ君?」
「すみません、ええと……」
何かを探して、生徒会室の棚の上を覗いた事は覚えている。けれど、肝心の何を探していたか、が思い出せない。
それどころか、エマが記憶をたどると、今日の授業を受けたかどうかさえ曖昧だ。まるで、そこだけ修正テープをかけたように記憶が無い。
「どうしたのかしら、私ったら……でも……」
「イスから落ちたせいで、混乱してるのかな」
落ち着いて、と肩を優しく叩くシマの掌を感じて、さらに混乱しつつ、エマはとりあえず息を吐いて、手近なイスに座る。
「そう、そうですね……そういえば、会長はどうして準備室に?忘れ物ですか?」
「ああ、僕?僕は……あれ?……」
いつも通り、のほほんと答えを返そうとしたシマの言葉が、途中で途切れた。
「まさか、会長も、ですか」
「そうみたいだ……」
「……」
「……」
しん、と沈黙が降りた生徒会室に、17時を指した時計の音が響く。
とりあえず、とシマの右手が、机の上に所在無く置いたエマの右手をそっと包んだ。
触れた彼の掌は、夏の終わりの季節にしては、少し冷たかったが、どこか懐かしい安心感がある。
「一人じゃないし、ここは学校だから、大事になることは無いと思うよ」
「……はい、会長」
根拠は無いが、この掌の温もりを感じていられる限り、自分は大丈夫だ。エマは、確信めいたその思いを感じながら、笑って頷いた。
――どこかで、懐かしい音を聞いた気がした。
西日が差し込む学生用の玄関ホール。
イリエは、上履きを靴箱に入れ、ローファーを手に取る。いつも通り靴を履こうとした彼女は、ふと手を止めた。
「あら?……」
自分がこの後、何処に行こうとしていたのか、思い出せない。
荷物を入れた鞄を持っているから、帰り支度をして、ここまで来たのだろうが、ここに至るまで、何をしていたのか記憶が無い。
まずい、と咄嗟に思って思考を辿る。
名前は大丈夫。学年も、タイの色と靴箱の表示から、記憶と相違ない。
流れる冷や汗を背中に感じながら、さらに鞄から取り出した生徒手帳を開いて、確認を進める。
実家は静岡、こちらに越してきて、この高校で生徒会役員になり、書記を勤めている。大丈夫、ここまでは完璧だ。
「うん、大丈夫」
自分に言い聞かせるように頷いて、辺りをうかがう。
夏の夕方特有の少し翳った日差しと、ヒグラシの声。落ち着いてしまえば、何も異常も無い、普通の放課後だ。
「何でもないじゃない」
イリエは、一人で取り乱してしまった自分に、こっそり照れ笑いを浮かべる。
とりあえず、早く校舎を出てしまおう。今日の授業内容が思い出せないのは、連日の暑さで疲れているからだ。
改めて、ローファーに足を入れ、深呼吸をする。
そのまま勢い良く出入り口の扉をくぐって――イリエは眉をひそめた。
「……え」
目の前には、 西日が差し込む学生用の玄関ホール。
整然と靴箱が並ぶ向こうに、今しがた自分がくぐったはずの出入り口が見える。
「どうして……」
夏の夕方特有の少し翳った日差しと、ヒグラシの声、足元には学校指定のローファー。それを履いたまま、彼女は校舎の中、玄関ホールに面した廊下に佇んでいた。
――どこかで、ちりん、と風鈴の音が聞こえた。
「あれ?」
階段を下り、何気なく玄関ホールに続く廊下を見たクロシオは、見知った顔を見つけて、足を止めた。
そこに居たのは、彼と同じ生徒会役員で、ひと学年先輩のイリエだ。
彼女は、何の偶然か同じ静岡からの、同時期の転校生ということで、生徒会などで、何かと親しくしてもらっている。
「どうかしたのかな」
普段は冷静で、しっかりしている彼女だが、今日は遠目にも判るほど、青ざめた顔をしている。
普段とは違う、尋常でない様子が気になって、クロシオは玄関ホールへ続く廊下を歩きながら、彼女の背中へ声をかけた。
「イリエ先輩?」
「きゃ」
「うわ」
悲鳴を上げるほどに、驚かれるとは思わなかったクロシオは、こちらも声を上げて、2、3歩あとずさる
「なんだ、クロシオ…君」
「なんか、驚かせてすみません」
ちょっと、具合が悪そうだったので、クロシオが慌て言うと、イリエは、ほっと息をついた。
「大丈夫、ちょっと動揺しちゃって」
「本当に大丈夫ですか、顔色悪いみたいですけど……それに、こんな所で外履きなんて」
クロシオが彼女の顔を覗き込むと、イリエは、思い詰めたように、彼の目を見る。
同じ生徒会役員として、それなりに付き合いはあるが、こんな彼女の顔を見るのは初めてで、クロシオは内心どきりとする。
「先輩?」
「クロシオ君……」
イリエのなめらかな両手が、クロシオの右腕を、きゅっと掴む。
ヒグラシの鳴き声が聞こえる玄関ホールには、夏の西日が差し込むばかりで、人気はない。
「イリエ先輩」
「ねえ、ちょっとそこの窓から、外に出てみてもらえない?」
「……はぁ?」
これはもしや、と一瞬淡い期待を抱いたクロシオは、彼女の唐突な頼みに、間の抜けた声を上げた。
「やっぱり駄目でしたね」
「二人同時でも無理なわけね」
クロシオの少し疲れた声に、イリエのため息交じりの声が重なった。
廊下に立つ二人は、共にローファー。荷物は廊下の隅に追いやられている。
「現在この校舎にあるものは、外への持ち出し禁止、って事か……人間も含めて」
「そうね」
「窓から鞄を投げたら、きっちり廊下に戻ってた。ってのは、なかなかシュールでしたね」
「ええ……」
おどけるようなクロシオに対して、イリエの口調は堅い。
「……」
「……」
人気のない玄関ホールに、不安を煽るような、ヒグラシの声がやけに大きく響いている。
「二人して、記憶があいまいなのに、どうしたら良いのかしら」
口元を覆って、小さく呟くイリエの声に、震えを感じたクロシオは、努めて明るい声を出した。
「それじゃ、いったん医務室か、職員室へ行きましょう。で、途中の教室も見回って、誰か残ってないか確認するんです」
「……」
怪訝そうに首をかしげるイリエに、クロシオは笑う。
「もし、一般生徒が僕らと同じ状況になってたら、保護しないと。一応、僕ら生徒会役員でしょう?」
「ええ、そうね」
クロシオの提案に、イリエは、はっとしたように顔を上げ、頷いた。
すこし、明るくなったイリエの様子を見て、クロシオはほっと息を吐く。
女子の――特に普段からしっかりしている彼女の、不安そうな顔はあまり見たくない。
なにはともあれ、今後の方針が決まって良かった。と廊下にまとめた荷物を持ち上げて、クロシオはふと手を止める。
「――ところで、イリエ、先輩」
「何?クロシオ君」
「この呼び方、すごく気持ち悪くないですか」
「良かった、私だけじゃないのね。ええ、さっきから違和感とトリハダが……」
「呼び捨てで良いですか……良いかな?イリエ」
「そっちの方が良さそうね……行きましょうか、クロシオ」
「了解」
ぱたぱたと、二つの足音が、玄関ホールを後にする。
「そういえば、僕ら顔を合わせて、まだ一年くらい?」
「ええ、そのはずだけど?」
「なんか、10年くらい一緒に居る気がするんだけど、どう思う?」
「私もよ」
「どうしてかな……」
「さあ……」
遠ざかる足音が、ヒグラシの声を残して、校舎の奥へ消えていく。
西日は角度を増して、完全に人の気配がなくなった玄関ホールを照らしていた。
「足の方は大丈夫?」
とりあえず、ひと心地つけようと、自分もイスに腰かけながら、シマは向いに座るエマに尋ねる。
彼女の両足には、事故による傷がある。彼女の故郷であるシドニーから、こちらに越してきたのも、それが理由だ。
「はい」
にこりと笑う、柔らかな金髪に縁取られた彼女の顔は、外国人特有の、彫りの深さによる険があまりない。それどころか、くるくる変わる表情は、子猫のようで、それほど女生徒に興味が無いシマでも、可愛いと素直に思う。
そんな彼女の笑顔に、シマも少し笑い返した。
「落ち着いたら、今日は帰ろう。忘れるくらいだから、大した用事でもないだろう。何かあったら、僕が責任を取るから」
送っていくよ、と言うシマの声に、彼女の顔がぱっと明るくなる。
自分の申し出が、こんなに喜んでもらえるとは、よほど不安だったのか。そう思いながら、生徒会室の棚にまとめてあった荷物を取り出す。
エマの鞄を手渡したところで、ふと彼女が呟いた。
「……でも、やけに静かですね」
「え?」
「普段の放課後なら、もっと騒がしいと思うんですけど」
彼女の言にあたりを見渡せば、確かに人の気配や、物音が感じられない。
いつもの放課後ならば、聞こえるはずの陸上部の掛け声や、吹奏楽部の練習曲が、今日は全く聞こえないのだ。
「確かに妙だな……」
自分達の記憶がない事と、関連があるのかは分からないが、確認はしたほうが良いだろう。
「とりあえず、いったん外に出てみようか」
「はい」
「職員室か、保健室か、まあ、どこかに先生がいれば捕まえて、状況を説明して…」
シマが生徒会室の扉に向って歩きだすと、逆に向こう側から、扉が開いた。
同時に、2つの人影が、生徒会室を覗き込む。一人は小柄で緑のネクタイ、もう一人は肩で跳ねる黒髪に青のリボン。
「それ、無理みたいですよ、会長」
「お邪魔してごめんなさいね、副会長」
「クロシオ、イリエ先輩!」
シマが二人の名前を脳内から見つけるより先に、後ろに立っていたエマが、彼らの名前を呼んだ。
それでは、とホワイトボード横に立ったイリエが、いつもの生徒会会議さながら、議題をボードに書き込んでいく。
「まずは現状の確認をしましょうか」
その声に、こちらもいつもの会議通り、はい、とクロシオが挙手をした。
「たぶん校内には、僕らしか居ないと思います。あと、校舎外に出るのは難しいかと」
言いながら、クロシオは玄関ホールからの顛末を、生徒会室に居た二人に説明していく。
「ついでに、ここへ来るまでに、教室と職員が居そうな部屋を覗いてきたんですが、誰も居ませんでした」
「……そうか」
普段は穏やかで、のほほんとした表情のシマの眉間に皺が寄る。
「そういえば、会長と副会長は、今日の授業覚えてますか?どうも、私とクロシオは、そのあたりの記憶が曖昧なんです」
イリエの言葉に、私達も、とエマが頷く。
「名前とか、学年とか、ざっくりした事は覚えているんですが、ここ最近の細かい出来事とか、授業内容なんかは思い出せません」
「同じね、私が気付いたのは、今日の夕方……たぶん17時くらいだと思うんだけど」
「私も……正確な記憶は、今日の放課後。生徒会室からしかありません」
「僕もかな、エマ君がイスから落ちた所から」
「ありがとうございました、会長」
「いやいや、エマ君のクッションなら役得だよ」
「やだ、もう、会長ったら」
「じゃ、全員そんな感じなのね」
「イリエ……僕は?」
「私と確認したじゃない」
「僕だけ訊かれないのも寂しいだろ」
「はいはい」
「全員の記憶がはっきりしているのは、今日の17時以降から、だね」
「あとは、今後どうするか、ですね」
書き込まれたホワイトボードを眺めて、呟くシマに、隣に座るエマも頷く。
窓の外の夕日は、逢魔時にさしかかり、窓が大きく採られている生徒会室でも、薄暗くなってきている。
「誰そ彼は、ね」
「え?」
イリエが思わず呟いた言葉に、クロシオが不思議そうな顔をした。
「なんでもないわ、電気点けましょうか」
「了解」
苦笑いするイリエに、クロシオは頷いて、部屋の隅のスイッチを入れる。
薄暗かった部屋に明かりが灯って、全員が一瞬目をしばたかせた。
「それで、今後はどうする?」
何か案は、というシマの問いに、クロシオが、それなら、と声をあげる。
「ここから出られないのなら、逆に外部から接触してもらうのはどうでしょう」
「と言うと?」
「今、少なくとも四人の人間が記憶喪失です。病院か警察に連絡を入れても良いんじゃないでしょうか」
「そうか、外は車が走っているみたいですものね」
窓際に近づいたエマは、学校の敷地の外を走る車を確認して、明るい声を出した。
遠くに電車も見えるから、この異常は校内限定なのだろう。
「中から出られないのは分かりましたが、外から入れるかどうかは未確認でしょう?」
「確かにそうね」
頷くイリエに、クロシオは得意げに笑うと、どうでしょう、とシマを見る。
「まあ、外部と連絡が付けば、状況も変わるかな」
他に手段も無いことだし、と納得したシマは、ポケットから携帯を取り出す。
二つ折りのシンプルなそれを開き、そのまましばらくボタンを押して――しかし閉じた。
「会長?」
どうしました?と首をかしげるエマに、シマは珍しく焦った顔を見せる。
「駄目だ」
「え?」
「切れてる、電源も入らない。エマ君、君のは?」
「ええっと……あ、やだ、私のも」
「……僕のもです」
「ちょっと待って……こっちも駄目ね」
慌ててポケットを探ったクロシオ、イリエも、携帯を手に眉をしかめる。
「連絡も取らせてくれない、か」
「参りましたね……」
打開策なしか、と話し合う男子二人を眺めながら、今夜は校内で泊まりになるかも、とイリエは小さくため息をついた。
せめてシャワーが使えたら良いが、肝心の施設は校舎を出て、しばらく歩いた先の、クラブ棟の中だ。
ため息をつきつつ視線を移すと、エマが壁の上を見つめているのが目に入ってくる。
「エマ?」
気分でも悪くしたのか心配になって、と声をかけると、彼女は元々色白な顔を、さらに白くしてこちらを振り返った。
「どうかしたの?」
「イリエ先輩、時計が……」
「時計?」
彼女の視線を追いかけて、見上げた壁掛け時計は、17時から動いていない。正確には、秒針だけが12から15の間を往復している。
「大丈夫よ、電池が切れたんじゃないかしら?」
今日は妙なことが続いているから、動揺しているのかしら、そう思いながら、イリエは笑う。
けれど、エマの顔色は晴れない。
「ええ、壁掛け時計はそれで良いんです」
いつの間にか、シマとクロシオも、話しを止めて、こちらを見ている。
「けど、どうして会長の腕時計も、温度計のデジタル時計も、同じ時間で止まってるのかしら……」
「……」