シュレディンガーの猫/ねぇどこにいるのあなた 2
「――これは、あれかな」
嫌な沈黙が広がる生徒会室で、シマは穏やかな口調で、口火を切った。
「定番なら、実は僕らは冷凍保存されてる人間で、こうしてる間に現実では何十年も経ってる、とか」
「……会長、それ本気で言ってます?」
呆れたようなイリエの問いに、シマはあはは、と乾いた笑いを返す。先程まで青い顔をしていたエマも、きょとんとして、シマを見つめている。
そこに、それなら、とおどけた調子で、クロシオが口を挟んでいく。
「そうなったらアレですね、その間に宇宙人との戦争が起こってて、人類存亡の危機なんですよ、きっと」
「そう、それそれ!クロシオ、さては君も昨日の深夜映画劇場観てたか」
「あ、会長も観ました?なかなか良かったですよね」
「ああ、少し古いけど、セットが丁寧で……」
「分かります、ストーリーも良いんですよー」
すっかり横道に逸れだし、きゃっきゃと盛り上がる男二人。
その様子を、しらっとした目で眺めながら、イリエは頭痛をこらえるように、額に手を当てる。
「イリエ先輩?大丈夫ですか?」
「どうでもいい事だけ覚えてるって……子供ね」
「先輩、眉間の皺すごいですよ」
「大丈夫よ」
おそるおそる、こちらを覗うエマに、イリエは苦笑いで答える。どうやら、先程までの緊張感は、すっかり飛んでいってしまったようだ。
「それじゃ、副会長。そこの万年昼行灯二人は無視して、今後の方針を固めましょうか」
「はい」
「繋がりました?」
「うーん、やっぱり駄目かな」
エマが生徒会室の机で、ノートパソコンを開くシマに声をかけると、彼はパソコンの画面から顔を上げずに、疲れた声で返事をした。
携帯が駄目なら固定電話、さらにはネット、と手分けして当たってはいるものの、状況は芳しくない。
「そっちは?」
「こちらも駄目みたいです」
「この分だと、クロシオ達の方も駄目そうだな」
「そうですね」
エマが眺める窓の外は、日も落ちて星がちらつき始めている。
事務室に向ったイリエとクロシオは大丈夫だろうか。そう彼女が何度目かの、ため息をついたところで、シマが諦めた様に、ノートパソコンの画面を閉じた。
「ここまで来たら……あと出来るのは、休憩くらいかな」
苦笑いをしながら、伸びをするシマに、エマはお疲れ様です。とこちらも苦笑いを返す。
普段の彼からすれば、めずらしい真剣な表情で画面に向う横顔を、じっくり観賞していました。と言うのは、乙女の秘密として黙っておく。
「そうですね。あ、休憩するなら、お茶淹れてきます」
「ありがとう」
「いえ」
背中に掛かる声に、エマはにっこり笑って、準備室の流し台へ向う。
「ふふ」
先程のやり取りが、まるで恋人同士の会話のようで、エマは思わず口元を緩めた。
上機嫌のまま、戸棚から、自分がストックしている、お気に入りの紅茶のティーバックと、これまたこっそり隠し持っている、自作のクッキーの包みを開ける。
ちなみに隣には、イリエのストックしている緑茶の茶筒と、梅昆布茶の小分けパックが置いてある。渋好みのシマには、そちらの方が良いかとも思ったが、今日はクッキーもあるので、紅茶だろう。
「どうですか」
「おいしいよ、こういう時に甘いものがあると、安心するな」
「そんな……でも、ありがとうございます」
良かったら、と出した手作りクッキーの評価はまずまずで、エマはほっと胸をなでおろした。
「会長に食べてもらうなら、もっといろいろ作ったんですけど…」
「これだけでも十分おいしいよ」
「ふふ、じゃ今度は、会長のために作ってきます」
「いいのかい?うん、楽しみにしていよう」
和やかに進む甘い会話に、生徒会室を出て行くときに、目配せをくれたイリエに、エマはこっそりグッジョブ!と拳を握る。
「なかなか良いものだね」
最後の一口を飲み干したシマが、しみじみと呟いた。
「この状況が、ですか?」
怪訝そうにエマが尋ねると、シマは悪戯そうな顔で笑う。
「そう、このままなら週末提出の課題レポートも、来週締め切りの進路希望調査も出さなくて良いから」
「会長ったら、もう少し、ちゃんとしてくださいよ」
「はは」
この生徒会長は、仕事は出来るが、妙に暢気なところがある。放っておくと、うっかり会議日程を忘れたりするので、資料の製作から果ては課題レポートの提出まで、副会長であるエマが、一手にフォローしている。
やれば十分出来る人なのに。そうエマはため息をつくが、本人は暢気に笑うばかりだ。
「会長は進学ですよね」
「うん」
「やっぱり物理系ですか?」
「そう思っていたんだけど、最近は医療系も気になっているかな」
「そうなんですか」
意外そうな顔で首をかしげるエマを眺めて、シマは軽く笑う。
「理由は、早く君の水着姿が見たいから」
「もう、会長っ!」
エマの色白な頬が、真っ赤に染まった。
「でも、舞浜南はそっち方面では専門外だから、進学には苦労するかな」
冗談は止めてください、とねめつけるエマの視線に、はは、とシマは暢気な笑いで答える。
その屈託の無い様子に、仕方ないですね、とエマはため息をつく。これが惚れた弱みというものだろう。
「会長が本気でそちらに進むなら、私がサポートします」
「エマ君」
今度はシマがきょとんとする番だ。
「ただでさえ、会議の日程や、資料手配までやってるんです。それくらい増えても平気ですよ」
「反論できないのが悲しいけど、心強いな」
「ええ」
「エマ君……」
「はい、会長?」
「いや、それじゃ、優秀な副会長殿に一任しようかな」
「任せてください」
少し得意げに、エマは胸を張って、にっこり笑う。
彼の卒業まであと少しだが、彼の進路に、少しでも自分が関われるなら、幸せな事だ。
出来る事なら、自分も共に隣を歩けると良いのだが、これは彼女の努力しだいだろう。
残りのクッキーを齧るシマを、笑顔で見つめながら、頑張ろう、とエマは決意を固めた。
「今日くらいは僕がやるよ、クッキーのお礼に」
空になったカップを片付けようとしたエマに、シマは笑って言いながら、2客のカップを両手に持って席を立つ。
慌てるエマに、ゆっくりしていて、と笑って、隣の準備室で、流しにカップを置き、蛇口をひねる。カップは、代々生徒会で使われてきたものだが、学校自体が新しいのと、毎年の管理が良いことから、染み一つ無い、綺麗な乳白色を保っている。
水に沈んでいくカップを眺めながら、先程の会話を思い出し、シマは深くため息をついた。
「……結婚詐欺師にでもなった気分だ」
本当なら、あの時エマに対して、もっと気の利いた、ありていに言うなら、告白やそういった事を。言おうとしたのだが、口に出せなかった。
別に、他に気になる女子や、恋人がいる訳でもない。副会長としてのエマを信頼しているし、一人の女の子としても、とても魅力的だ。けれど
――卒業後、志望の大学に進み、彼女と穏やかに将来を語り合う。
それは誰かに対する裏切りで、酷く残酷な空言の様に思えたのだ。
「……」
その正体の無い罪悪感を洗い流すように、シマは流しの蛇口をさらに勢い良くひねった。
ダメもとで覗いた購買は、意外にも開いていた。
もちろん、校舎内の例に漏れず、人の気配は無かったが、清潔な店内と、棚に並ぶパンの包みはいつも通りだ。運動部員が買い占めていかない分、下手をすれば、いつもよりも品揃えが良いかもしれない。
「良いのかなー」
「良いのよ、ちゃんとお金はカウンターに置いたでしょ」
人の気配が無いのを良いことに、不安げなクロシオにカウンターを越えさせて、イリエは笑う。
「何かあれば、私がちゃんと説明するから」
「絶対だからね」
「はいはい」
カウンターの中のクロシオは、少し申し訳なさそうな顔をしながら代金を置いて、奥の棚から4人分のパンを失敬していく。
提案したのはイリエだが、実行犯を買って出たのはクロシオだ。普段の言動は、軽めだが、こういう時に率先して動くあたり、彼女にとって、頼りになる後輩である。
「イリエは卒業したらどうするんだっけ?」
「とりあえず、進学かしらね」
まだ、将来のことなんて、全然考えていないけど、と苦笑いするイリエに、クロシオも同意して笑う。
「そっか、はい」
渡された菓子パンの袋は、イリエ御用達のメーカーだ。
「……」
「あれ?これダメだった?」
「いいえ、これで良いわ。ありがと」
「うん」
満足げに頷くその顔は、2枚目と言うには程遠いけれど、それなりに整っていて、愛嬌があって可愛らしい。もっとも、男子高校生本人としては、この表現は不本意かもしれないが。
「これも先輩の欲目、って言うのかしらね」
「え?」
「何でもないわ、ありがとうって事」
「さっきも聞いたけど?」
「夕方の分よ、あのまま一人だったら、どうしてたか分からないわ」
「声掛けただけだよ」
「あなたの顔見たら、落ち着いちゃったのよ。その髪型のせいかしら」
「おい」
くすくす笑って、呆れ顔のクロシオが、カウンターを越えてくるのに手を貸す。
具体的には思い浮かばなかったが、彼はいつも頼りになった、ということを、夕方の玄関ホールで思い出したのは、先輩として口惜しいので、秘密にしておく。
「さ、行きましょう。あんまり遅いと会長と副会長が心配するわ」
「お邪魔にならなきゃ良いんだけどね。後でエマに睨まれるのはごめんだから」
「ええ、会長と副会長には良いチャンスかもね」
「……会長も?」
「あら、気付かなかった?多分ね」
「難しいなー」
「ふふ」
生徒会室へ向う廊下を歩きながら、クロシオはふと眉をひそめて、足を止めた。
彼が足を止めたのは、廊下の一部にはめ込まれている姿見の前だ。そこでは普段は購買帰りの女子達が、髪やリップを直している。もちろん今日は、そんな女子達の姿も無いので、鏡にはクロシオ一人が、ぽつんと映るだけだ。
「え……」
映っているのは、いつもと変わらない、夏服の自分。けれど、先程一瞬見た鏡の中の”彼”は悲壮とも、諦観とも言える、やるせない表情をしていたように見えた。
勿論、クロシオには、そんな顔をする理由は無い。気楽に、楽しく穏やかに、転校先のこの学校で、高校生活を満喫するのが、自分の信条だ。
「クロシオ?何してるの」
見れば、先を行くイリエは、既に廊下の突き当たりで、こちらを怪訝そうに振り返っている。
もう一度、姿見に視線を戻すと、そこに映っているのは、いつもの、ちょっと気の抜けた自分の顔だ。
「クロシオ?」
「何でもない、いま行く」
さらに呼びかけるイリエの声に、笑って返す。ただでさえ妙な事態だ、これ以上無駄に女性陣を不安がらせても仕方がない。ついでにこんな校内に、一人取で取り残されるのも、正直ごめんだ
そう頷いて、クロシオは、小走りに姿見の前を通り過ぎた。
「ただいまー」
「お帰り、イリエ、クロシオ」
「イリエ先輩、どうでした?」
「事務室も全滅。そっちは?」
「職員室もダメ、ネットもいろいろ試して見たけど、無理そうだ」
「そうか」
時計は17時を指したままだったが、窓の外は月が覗いていた。
再び合流した生徒会室で、お互いの情報交換をする。
報告を聞いて、少し難しい顔をしたシマに、でも、とクロシオが得意げに口を開く。
「こっちには収穫があるんですよ、会長」
「購買が開いてました。電気も通っているから、食料は、3日くらいは大丈夫かと」
クロシオが、明るい顔をして、購買の買い物袋を掲げ、イリエが補足を言い足す。
「それは僥倖だ」
「あ、じゃあ私、飲み物用意してきます、クロシオ準備して」
「僕もかよ」
2年生コンビが、パタパタと準備室に駆け込んでいく。その様子を微笑ましく眺めながら、イリエはシマに笑う。
「お腹空いてると、余計不安になりますからね」
「うん、ありがとう」
「時に会長」
「うん?」
「進展はありました?」
「……さて、どうかな」
イリエの視線を受けて、シマは薄く苦笑いを返した。
「とりあえず、食べましょうか」
イリエ、クロシオが購買から持ってきた菓子パンと、エマが準備室から探しだしてきたインスタントスープで、即席の夕餉が始まった。
「こうしてると、キャンプみたいね」
「購買のパンとインスタントスープが?」
どこかしみじみと言うイリエに、クロシオが茶々を入れる。
「このエリンギ。こう、みんなで家じゃないところで夕飯を食べるのが」
「ああ、そういう…って今さらっと酷い事言わなかったか?」
「ま、確かにこれはキャンプかな。けど秋になったら文化祭準備があるから、嫌でも泊り込み確定かも」
「う、やっぱそうなります?」
クロシオがパンを齧りつつ、情けなく眉を下げ、シマはその様子に、小さく笑いながら頷く。
「一般生徒が残って、執行部が残らない訳にはいかないだろう」
「ですよねー」
がくりと肩を落とすクロシオとは対照的に、隣のイリエがくすくすと肩を震わせている。
その向かいでは、エマがスープの入ったカップを片手に、きょとんとした顔をしていた。
「文化祭?」
「ああ、副会長は日本の学校、これが初めてですよね」
「ええ、プロム?」
「と言うより、学校主催の大掛かりなバザー、って言った方が分かりやすいかな?出店を出したり、展示をしたり」
「ああ、それならなんとなく分かります」
シマの説明に、なるほど、とエマが頷くと、イリエがさらに詳細を説明する。
「舞台での出し物もやるの、演劇部とか、有志で組んだバンドとか」
「劇かぁ、観られる余裕があればいいけどね」
クロシオが顔をしかめる。
「当日は校内を走り回って、そんな暇はなさそうだけどね」
「でも、それも楽しそう」
シマの苦笑いに、エマのくすくすという声が重なる。
「裏方も慣れれば楽しいよ」
「そうかなー」
「クロシオ」
柔らかに笑うシマと、揚げ足をとろうとするクロシオ、それにツッコミを入れるイリエと、三者三様の様子に、エマはこらえきれずに笑う。
「ふふふ、秋が来るのが楽しみです、会長」
「ああ。エマ君の期待に応えないと、なあクロシオ」
「名指ししないで下さいよ会長」
「観念なさい、会計担当」
「イリエまで……くっ、各クラスから上ってくる収支見積もりと、予算合わせるの大変なんだぞ」
半ば本気で泣きが入ったクロシオの叫びに、生徒会室に笑い声が響いた。
「――そういえば、あれは何?」
食後のお茶を飲みきって、全員がどこか落ち着いた雰囲気になる。そんなとき、ふとクロシオが机の上に置かれた、それを示した。
ダンボールで出来たティッシュ箱サイズの箱が、会議机の端にぽつんと置かれている。
それを見て、ああ、と少し恥ずかしそうにエマが笑う。
「私そこの棚で、探し物をしていたみたいで、その時その箱を、落としそうになったの」
「怪我が無くて良かったよ」
「ふふ」
二人の世界をつくる会長、副会長を横目に、席を立ったイリエが、箱を手に取る。
「中身は何かしら?」
「大きくないし軽いから、判子かなにかだと思うんだけど」
イリエから箱を受け取ったシマが、軽く揺すってみると、箱の中からは軽い紙の音と、少し重量のあるカタカタという音がする。
「開けてみるか」
「はい」
いつの間にか、全員が箱を持つシマの周りに集まっている。
代表してシマが、箱にガムテープでされていた封を開いた。
「……これは?」
「あら、懐かしい」
「あー、これだったか」
「……」
箱の中か出てきたのは、硝子でできた風鈴。江戸風鈴だ。
シマは、緩衝材代わりに詰められていた薄紙をはずして、短冊を整える。
彼の手元で、りん、という音が響いたのと、校内放送のスピーカーが鳴ったのは、ほぼ同時だった。
『フォセッタです、司令、皆さん、お待たせしました。サーバーチェックが終了しました』